昔、このような日記を書いた。

活きのいいゾンビになりたい

今は薬の効果もあり、楽しいと思える活動は増えてきている。それでも、死にたさは私の隣に佇んだままだ。

「死にたい」と口にすれば、やれそんなことは言うなだの、やれメンヘラ乙だのと言葉を投げつけられることになる。逆に訊くけど、なんでお前らは死にたいと思わずにいられるんだ? このクソみたいな世界で、どうして絶望せずにいられるのか。理解しかねる。

「死が怖い」という感覚が理解できない。私にとって死とは究極の安寧で、空虚な平和で、実りはないが痛みも苦しみもない素晴らしい状態だと思われる。シオランは、生まれる前の状態が一番良いと言っていた。その生まれる前、非存在の状態に近づく「死」は魅力的だ。

自分が消えるのが怖い、とはどういうことだろう。自分が消えれば怖いという感情すら消えるのだから、もはや怖くはないのに。

似たような話で、ボケるのを怖がる人は多い。たしかに、ボケて他者に迷惑をかける可能性は怖いと思うけれど、ボケることそれ自体はそんなに怖いものではないように思う。何かを忘れていることすら忘れるのなら、自分の中でそれなりの整合性を取って理解するしかないし。ボケてもボケなくても、人生は不安にまみれているし。

人間は、生きている状態が善で、それが損なわれるのは悪だとしている。しかしそれは、生きている状態しか知らない/理解できないから善だと思い込んでるだけなのではないか。生まれないほうが幸せだ、と言い切ることは私にはできないが、それでも「生まれてこない幸せ」を考えてみることはできる。河童のように、生まれませんと言い残して消えてしまえる可能性を。

男と女は長く二項対立として扱われてきたが、ノンバイナリーなどのクィアの存在によってそれは崩された。それと同じように、生と死の対立も崩すことが可能なのではないか。

生と死の狭間、あるいは外側に、睡眠や「ただ何もせずに寝そべること」があるのでは、と考えてみる。夜の子、ヒュプノス(眠り)とタナトス(死)は双子の兄弟であるように、睡眠は生きながらにして死に接近する行為である。

冒頭で挙げた日記を書いた頃は傾眠がひどかった。3日寝込むこともあった。今は薬の効果によって、朝に起きて夜に眠る生活が出来ているが、それは生=善=多数派の社会に取り込まれることじゃないの、とも思ってしまう。病をアイデンティティにしてはならないとは言うが、あの頃の私にしか見えなかったものは確かにあるのだ。

回復すること、健康に近づくことは、かつての私を否定されているようにも感じる。

子どもの頃の私は、自分の死なんて考えたことがなかった。中学生の頃、私は世界が滅ぶことを願って泣いていた。大学生のころの私は神経症的に普通を追い求めて、結果、体を壊した。自分がゾンビだと思った。今の私は何者だろうか?

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