私は何度かハンドルネームを変えている。おおよそ3年に一度の頻度で。

とくにトラブルがあったという訳ではなく、なんかしっくりこない、飽きてきた、という軽さで名前を新しくしている。

にちゃんとニコ動で育ったものだから、ハンドルネーム文化はあまり身近ではなく、一時的に付くコテハンなら知っている、という程度。ウェブでは基本的に人間は名無しの権兵衛でしょ、という感覚がある。

それはインターネットがまだ社会に組み込まれる前の話だ。少しアングラな空気が残っていた時代のお話。

名前とは、過去と今を結びつける絆である。フィジカルの無いウェブの世界では、アカウントと名前だけがそのひとを個人として成立させるためのファクターだ。名前を名乗るということは、現実以上に、過去を引き受ける意味合いが強い。

名前を変えるということは、過去を切り離す行為だ。それはひとを身軽にするが、同時に責任を取らないというポーズにもなりうる。

気がつけば、雪原名義でBlueskyを初めてからそろそろ3年になる。私にとって3年とはひとつのターム、節目である。3年という月日は、なかなかに重たい。だが、そろそろこの荷物をこのまま持ち歩いてみようか、とも思うのだ。

大人なのだから、そろそろ責任を持たなきゃね。子どもでいるのはおしまいだ。

名前とは、あるいはこう言うこともできるかもしれない。語りをひとつに纏めるものである、と。身体を持たぬ象徴たち──ブログ、サイト、イラスト、詩、小説──に皮膚を与えるものがタイトル。皮膚とは境界だ。壁であり玄関だ。散逸しないためのものであり、迎え入れるためのもの。

では、ハンドルネームは何なのか。この私という意識を閉じ込める箱か。いいや、そうではないはず。皮膚は伸びたり縮んだりする。雪原という名に含まれるものが増えていくことを許容する。なにかを失うこともまた許容する。

そう思えば、同じ名前を名乗り続けるのも悪くない。

リアクションをロード中です...

なにか思いついたら送ってね