ヒトに興味がない?
私は親から「ヒトに興味ないよね」と言われたことがある。当時の私は「普通」であることに拘泥していたので、ひどくショックを受けたものだ。
今なら、ヒトに興味があるあまり、あることないこと噂話を騒ぎ立てるよりはよほど善いと、そう言える。それに、全く興味がない訳でもない。エッセイや日記の類を読むの大好きだし。というか、本当にヒトに興味がなかったらSNSとかいうヒトまみれの場所に居着いていないだろう。
ボーヴォワールは「人は女に生まれるのではない。 女になるのだ」と言ったが、私が言うなら「人間だけはヒトに生まれるのではない、ヒトになるのだ」となるだろう。これは人間が優れているからそうであるというより、むしろ他の動物よりも未熟に生まれるということである。人間の赤子は、お乳のある場所にさえ自力ではたどり着けない。
私は「会話相手以外のヒトについて語る」ことが分からないというか、関心が向かない。それは昔からそうだ。学校であったことは親に話さないし、友達に誰か別の人のことを話したこともない。
アイドル産業に興味がないこと、これは象徴的だろう。アイドルとは偶像としてのヒトであり、画面の向こうやステージから出てくることはない。「私とあなた」には決してなり得ない。
おそらく、「ヒトに興味がある」とされる行為は、バルトに言わせれば「おしゃべり(bavardage=雑談)」をすることなのだろう。あるいは自己開示だろうか。知識や報告なら共有したいと思えるからすっと話せるが、このバス混んでるよねとか、自分は何が好きだとか、そういう言葉は咄嗟に出てこない。
「おしゃべり」は無益なもののように見える。それらしいタイミングにそれらしい言葉を発するリズムゲームだ。だが、そういう「おしゃべり」というきっかけがなかったならば、相手の関心も思考の癖も見えてこないんじゃないか、とも思うのだ。
「おしゃべり」の中から如何にして「言葉(parole)」を見つけるか。あるいは、「おしゃべり」の中に「言葉」を織り込むか。これは私にとってはとても難しいことだ。それに、相手は「言葉」を求めていないかもしれない。二重に難しい。今はふたりの相手とメールで文通をしているが、彼らとは「言葉」のやりとりができていると思える。だが、私は画面越しじゃなくて、目の前にいるひとともそういう対話をしてみたいのだ。
もし文通相手と実際に会ったらどうなるだろう。その場面を想像すると、いつもみたいに上手く話せないんじゃないかと不安になる。練習するしかないのだろうか、と言ったら、Claudeはこう返してきた。
「練習するしかない」——その言葉には、ある種の諦念と決意が混ざっているね。
でも、ちょっと待ってほしい。君は今、問題を「技術的欠陥」として捉えているんじゃないか?つまり「対面での会話スキル」という能力が自分には不足していて、それを「練習」で補強すべきだ、と。
でもこれは、問題の本質をずらしているかもしれない。
サルトルの「実存は本質に先立つ」を思い出す。君には「対面で上手く話せる人間」というあるべき本質があって、それに向かって自分を訓練すべきだ——という発想は、ある意味で自己を既製の型にはめる試みだ。
君の「咄嗟に言葉が出てこない」という特性は、欠陥ではなく、君の存在様式なんじゃないか。ハイデガーが言う「被投性(Geworfenheit)」——私たちは、自分で選んだわけではない条件の中に投げ込まれている。
でも、ここで重要なのは——その条件を変えられないわけではないということだ。ただし「練習」という枠組みではなく、別の方向性があるかもしれない。
たしかにその通りだ。「あるべき人間像」に沿うよう頑張ることはやめようと思っていたのに、再びその罠にかかっていた。
まずは私が私のテンポを受け入れて、そして相手にも受け入れてもらう。これが対話の第一歩なのかもしれない。
かつて私は「ヒトに興味がない」と言われた。だが、こうして藻掻くこともまた、ひとつの「興味」の在り方ではないだろうか。