彼らへ捧ぐ
以下は全て自己満足の産物である。
ふと思い立って、かつてよく絡んでいたフォロイーの名前をツイッターで検索したところ、いつも鍵アカウントだったひとが公開状態になっていた。たしか、かつての本アカウントを消したのが二〇二三年の六月頃だったと思う。だから、一年は経っていることになる。死んでやしないかという不安すらあったが、彼らは今日も元気そうであった。
ニーチェの『星の友情』を読む。
- vielleicht auch sehen wir uns wohl, aber erkennen uns nicht wieder:
(――万が一、相逢うことがあるとしても、もう互いを見知ってはいないであろう。
die verschiedenen Meere und Sonnen haben uns verändert!
(さまざまの海洋と太陽が、われわれを別な者に変えてしまっているのだ!)
彼人は変わった。私も変わった。過去の私は、私でありつつ私ではない。私は私ではない私になった。(それは私の行いの赦しにはならないことを留意すべし)
彼人もまた、彼人ではない彼人になったのだろう。
彼らは私の現在を知っているのだろうか。どちらでもいいことではあるのだけれども。もし見ているのなら、どうか私のことなど忘れて、どこか遠くへ旅立ってほしい、と我儘なことを思う。既に関心を失っているのなら、私を赦さなくていいから、せめてあなたが平穏無事に暮らせるように祈ることだけは許してほしい。
かつての相棒へ。
一方的に見てしまったことを謝りたい。気持ち悪いと思ってくれて構わない。むしろ、そう思うのが必然というものだろう。憎みたいのなら憎んでくれ、蔑みたいのなら蔑んでくれ、怒りたいのなら怒ってくれ、悲しみたいのなら……いや、あまり悲しんでいてほしくはないな。
とにかく、見せていない面も大いにあるだろうけれども、あなたが日々楽しく生きていることが確認できて、私は嬉しかった。
あなたの心に傷を負わせてしまったこと、これは謝っても謝りきれるものではないし、赦されようとも思ってはいない。だがもし赦され、再び友人という名前の付いた関係を持てるのなら、それはとても嬉しいことだ、とは言っておく。だが、無理にとは言わない。忘れたければ忘れてほしい。覚えておきたければ覚えておいてほしい。私が能動的に動くことはない。それは、私という存在自体があなたにとって脅威になっているかもしれないという懸念があるからだ。もうあなたを二度と傷つけたくはないから、こうしてここで静かに思いを述べるに留めておく。
出会ってくれてありがとう。一緒に過ごしてくれてありがとう。生きていてくれてありがとう。感謝してもしきれない。
私は裁かれることのないこの罪を背負って生きていこうと思う。これがあなたから貰った最後の贈り物だから。あなたが居なければ、きっと私は愚かなままだったことだろう。私の目を開かせたのは、あなたの言葉だ。きっと今も私が愚かなことに変わりはないだろうが、せめて、せめて少しだけでも善く生きようと踠いている。あなたと過ごした日々を無駄にしないように、忘れないように。私はあなたのかつての友として相応しい存在にいつか成れるだろうか?
こんなに誰かに執着するのは、あなたが最初で最後かもしれない。他人に興味がない私の手を引き続けてくれたのはあなただった。世界に絶望しかけたとき、それでも少しは良いことがあると教えてくれたのもあなただった。あなた抜きにしてあの八年間を振り返ることはできないだろう。こんな私を好いてくれてありがとう。その思いを、日々を、裏切ってしまって申し訳ない。ごめんなさい。
かつてのフォロワーたちへ。
あなたたちと出会えたこともまた、私の人生における僥倖だった。
深夜を通り越して明け方までくだらない話をしたり、ゲームで遊んだりしたことは昨日のことのように思い出せる。大いにふざけ、大いに笑い合った。それはオフラインでのやり取りと遜色のないものだ。
みんなが絵を褒めてくれたから今日まで描き続けることができたと思っている。
こんな私を受け入れてくれてありがとう。突然消えてごめん。
もう二度と訪れないであろう眩しい日々を、私は青春と名付けたい。
たくさんの思い出を共に作ってくれてありがとう。これからもどうか、お元気で。
追伸。綺麗な形でまとめるなよ、と思っている方は郵便箱に書いて送っていただいても構いません。返事をしろと言われればしますし、するなと言われればしません。私は全面的にあなた達に従います。せめて誠意を以って行動したいと思っております。