墓荒らし
trickleというサービスを短期間ながらも使用していたことを思い出し、一年前の、日記に書かれなかった部分を補完できそうだったので、いくつかピックアップしていきたい。
二〇二三年
二月六日
エビリファイ入ってから明らかに感情の振れ幅がデカくなって精力的にもなったけど、鬱の期間が長すぎてこれって躁転なのでは? て毎日怯えてる。ちゃんとへとへとになってるから躁ではない、はず。
二月八日
人間関係を保つことを諦めたり志したりどうでもよくなったりしている。「すべき」だからそうするのか、「したい」からそうするのか、「したくない」からといってしないでもいいのか? など……
キャラクターに対しても生きた人間に対しても、基本的に他者に踏み込もうとは思わないしただ他者どうしの交流から垣間見えるその人らしさを知れればそれで十分知りたい気持ちが満たされてしまうんだよな だから興味が持てない
情報を取り込んで整理したり、複数の物事の似た部分と違う部分を考えたりするのは好きだけど、人間も情報として扱えば情報になるのに何が違うんだろう
二月二十日
はやく死んで楽になりたい vs 世界に殺されるのは癪だ
二月二十一日
やたらと承認欲求は恥ずかしいものとしてあげつらわれているけれども、度が過ぎない程度に原動力として働いてくれるならむしろ歓迎してもいいんじゃないかと思えてきた。
欲に操られず、欲を利用するならむしろ賢い生き方じゃなかろうか。
三月七日
定義よりも、わたしとあなたが今この瞬間、あるいは後から振り返ったときに「好い生き方をしたな」と思えればそれで十分だよな、きっと。
動画を見たら脳内が騒がしくなってしまった。画面の向こうの人間の会話もダメなんですか?そっか……
反抗期を迎えるべき頃以前から鬱々として過ごしていたので当然反抗するような気力もなく、奇跡的に親とマブダチになったりもしたもんだから、独り立ちしようという気が湧いてこなくてこれはこれで考えものだな。
三月十日
私はこの通り使えない存在なので早く寿命を誰かに譲りたい。
善く生きたいという気持ちも、はやく死にたいという気持ちも、どちらも本当なんだよ。
三月十四日
自身の姉(私から見て伯母)の葬儀に出席したがらない祖母を説得できる自信はそれなりにあるものの、しかしこれは私の自己満足でしかなく、本人がやりたがってないことを無理にさせても嫌な思い出になってしまうんじゃないか、とも思う。どうすればより良い人生になるのだろうか。
三月十五日
最近になってようやく、私は他人が怖いのではなく、他人と空間を共有すると疲れるから人混みが苦手なんだと気がついた。
三月二十日
なんにも考えずに「全部分かっている人」に導いてもらいたいだけの人って、思っているよりもたくさん居るのかもしれないな。
三月二十八日
半年以上、毎日やり取りを交わしていた友と丸一日も連絡がつかない。心配だ。不安だ。
何かがあったのかもしれないが、家電の番号は知らないし、直接行くにも遠すぎるし、あとはひょっこり帰ってくることを信じるしかない。私が信じなくて誰が信じようか。
四月一日
これまでは絵しかやる気がなかったからツイッターでダラダラ呟いてたけど、今は言葉もやってみたい気持ちになってるからブログをこさえたいわね。noteは通知が煩わしいからあんまり使う気にならない……
ていうか社会ってなんだろう。共有することか。違うことこそを共有すべきなのに、同じものでなければ誰の目にも入らないし、それは無いことと同義であり……
どうせ大規模アカウントでないと誰も見ないし何をしたって無駄だし価値がないだろ、というひねた気持ちになってくる。
目の前のあなたにこそ伝えたいことをやっていくしかないんですよね。たったひとり、されど一度しかない貴重なひとりの人生に……
四月五日
上手くやれば治るが、それにはアイデンティティを破壊するレベルの認知のテコ入れが必要って話か。どんな俺でも俺という肉体に入っている限りは俺だから大丈夫だな。
四月六日
正しくあらねばならないと思いこんでいるから、お前は間違っていると言われると心臓がきゅっとなるの、どうにかしたいな。
完璧でなければならないと思っているから、それが破られて焦るのだろうか。それとも、普段は完璧だとでも思い込んでいるのだろうか。
子供の頃はママに怒られたら世界がおしまいになってしまったかもしれないけれど、大人は誰かに叱られても世界は終わらず、粛々と続きをやっていくしかないんだよな。
四月九日
人の心が分からないメンヘラでごめんな。
明日からまた人間のフリをして生きなければ。
四月十日
閉じこもることほど、楽で満ち足りたことはないな。
他者と関わることは足りない部分を作ること。そうして豊かになる。
「正しい人間」になんてなれやしないのに正しくあろうとしているのって馬鹿かもしれない。正しいって要は多数派のことじゃん。
四月十二日
依存してたのは間違いなくて、だからポエムを吐く羽目になったんだよな。俺がもう少し健全に人間関係をやれていたらこんなことにはならなかったろうな。
四月十四日
半分はインターネットに書いた俺が悪いけど、それをわざわざこんな閉じた場所まで見に来た責任もあるだろ。日陰にある湿った石を転がしたらキモい虫が出てくるのは当たり前なんだから。(言い訳がましすぎるだろ! 二〇二四年追記)
四月十七日
みんな他人に興味があるフリをしているだけだし、他人に好意があるフリをしているだけなのかもしれない。
関口巽は本当にすごい人だな、という気持ちになってきた。すごいよ、関口さんは。すごいな。
四月二十六日
告っても付き合ってもいないのに破局した気分だな。実際のところ人間関係がひとつ潰えた点では同じことかもしれないが。
たしかにああでもないこうでもないって悩む必要がなくなってしまった今となってはスッキリとさえしているけれども、けど人間関係ってそれでいいのかな、とも思っています。
五月一日
常に正解を探してる気がする。正解なんてどこにもないのに。
どうせ自己中な部分は捨て去れないんだから、それならいっそとことんわがままになりたいのに、なれなくて中途半端なままだから具合が悪いんだよな。自分を中心に考えないで誰を中心に考えて生きていくのさって話よ。「みんな」なんて曖昧なものじゃ足元がおぼつかないし、「あなた」にしようとしたって他者を完全に理解できるわけがないんだからそれも無理で。なら「私」しかないんだよな。マァ自分だから自分のことを理解できるってのも傲慢な考えではあるけども。私が私のことを分かってやらなきゃ誰にも分かってもらえない。せめて私だけでも分かろうと努力したい。
都会は色々な人間が居るからどんな格好でもどんな性格でも馴染むことができる、といった言葉をどこかで聞いたけど、どうあがいても「都会の人間」にはなれないから馴染める気がしないな、と思う。
私は友達って概念に多くを求めすぎていて、本当は孤独しかありえないのかもしれないな。すてきな幻を少しのあいだ見られただけでも幸せなことなのかもしれない。
五月十九日
健康って何を指すのかしら。私はいつだって正常です。
私のような有害な存在はひとりで居たほうがいいんでしょうね。私もお前らを求めちゃいないし、それでいいですね。
私のほぼ全てが演技ならば、最後まで演じ通さなければ無礼というものですね。
私の中で抜け落ちていたピースが嵌まって、なんとなくすっきりした。過去の死んだ感情や記憶を掘り起こすのって、墓を暴くようなものだな。