「関係」と「愛」
全ての友人に対して、友人という呼び名をつかうことは不適切に感じる。そこにあるのはあなたとわたしの唯一無二の関係性でしかなく、共通の名付けは相応しくない。ただ、便宜上、通称、伝わりやすいからという理由で「友人」の語を用いている。なんらかの社会規範に当てはめて、それらを参照しながら距離感を窺う必要なんて最初からないのだ。お互いを人として尊重できさえすれば。
これはblueskyでの、ながれさん(@all-u-need-is-luv.bsky.social)のポストだ。
本当にこの通りで、もはや私が言うことは無いに等しい。
あなたとわたしの唯一無二の関係性は、とても「友人」という語に収まるものではない。いや、きっと「友人」という語は様々なことを受け入れてくれるのだろうが、多くのひとの認識、即ち社会規範はそうではないらしい。だから「友人」と呼ぶのに抵抗が生まれる。
社会には、友人ってこういうものだよね、ここからは恋人だよね、これ以下は知人だよね、といったように、線引きや上下関係がある。一直線上に並べている。しかし実際には、人間関係の在り方に上下などなく、数多の唯一無二があるだけなのだ。とても線分では表せないし、固定観念まであるから厄介だ。
よく男女の間に友情は成立するのかという問いかけが為されるが、異性愛規範によるものでしかなく、その問いはナンセンスであるとしか言えない。
例えば、お互い好感を持っていてセックスするのなら恋人なのか、と言えば、必ずしもそのラベルがしっくりくるとは限らない。友人同士でセックスしたって構わないじゃないか。逆に、恋人を名乗ったとして、無理をして恋人たるものこうあるべきだろうという行為をする必要もない。
私は基本的に、誰に対しても同じような温度で同じような態度を取っている。それは、知り合いに対しても、友人に対しても、先生に対しても、親に対しても、だ。それは意識してそうなった訳ではなく、結果そうなってしまった、と言った方がいいかもしれないが。
私の認識は、老若男女、その他諸々、ひとであるならば全て〝ひと〟であり、それ以上でもそれ以下でもない。だから、見た目の年齢やジェンダーによって対応は変えないようにしているし、実際に(おそらく)そこまで大きな違いはないはずだ。異性(にみえる)からといって緊張したり嫌悪したりするのは、私にとっては不可解なものだ。初対面ならば、歳が上だろうが下だろうが、適切な距離と礼節を持つのが良いだろう。
……と思っていたのだが、とある一連の出来事で、同年代の、特定の性格タイプの者たちが苦手になり、怖くて萎縮してしまうようになってしまった。あくまで彼人との相性が悪かったり、諍いがあったというだけのことなのに。いつか克服できるだろうか。これはまた今度考えるとしよう。
関係が浅い/深いと言うことがある。
深い仲なら、互いの価値観をよく理解・把握し、込み入った話をして、頻繁に遊ぶ。浅い仲なら、そこまで互いを知らないまま、おべっかを使ったりして上辺だけで付き合う。だから、深い仲は価値があり、そうなるべきである。浅い仲は、軽いものだ。そういう価値観がどこかにあると思う。私にはある。だが、そんなことは無いとも思っている。
もちろん、深い仲の者(理解者と言い換えてもいいだろう)が居れば、心強いことだろう。それは分かる。
浅い仲は深い仲の前段階、これは事実だ。だからといって、浅い仲の価値が軽くなるということはない。例えば、仕事場で世間話をするだけの間柄だとしよう。その相手と仕事上で助け合うことができるのならば、それは全く断絶している状態と比べると、随分とやりやすいはずだ。
知り合った全員と深い仲になる必要はなく、また、それは不可能なことだろう。それぞれ価値観も許容範囲も違うのだから、全員が全員と理解者になったとしたらむしろ奇怪ですらある。多様性がある以上、どうしても相入れないことは必ずある。深い仲になろうとすると、むしろ溝が深まることもあるだろう。だから、浅いところで連帯し、上手く生きていくこと。これにこそ価値があるのではなかろうか。
浅いと深いを対比させるのではなく、断絶と連帯で対比させるのが妥当なように思う。その連帯のなかに、浅い深いが含まれているだけなのだ。
私は生きている中で親友と呼ばれたことは三度ある。その中のひとりとは、七年の付き合いがあった。くだらないことをして笑い合ったし、深刻な話もした。私も彼人を親友だと思っていた。
お互いがお互いに好きだったのは、きっと間違いないだろう。そうでなければ、時間を共に過ごし、さまざまなものを与え合うこともなかったはずだ。
しかし、今になって思うと、最後の頃の私は、彼人に〝本当の自分〟は見せていなかったな、と思う。私は変わってしまった。離れていっているのに、無理に引き寄せようとしてしまった。きっとそれが本当の別れの原因だ。
本当の自分とは、私の核になる部分の価値観だ。私は、私がここ数年で急速に変わっていっているのを、自分でも感じている。だから、かつて気が合っていた彼人と、いつの間にか合わなくなっていたのだ。
それでも、私が彼人の手を離したら、彼人はきっとひとりになってしまうと、本気でそう思っていたし、実際、彼人は孤独を抱えたひとだった。なので、私は無理をしてでも愛そうとした。だから、その時の私は愛を義務と定義していた。相棒なのだから、愛さなければならない。支えなければならない。共に居なければならない。そんな義務感に満ちたものなど、続くはずがない。
彼人に怒りをぶつけられたとき、私は怖かった。まるでお母さんに殴られたような、そんな気持ちになっていた。きっと、私は彼人を対等な相手とは見ていなかったのだろう。勾配を自ら作ってしまっていた。だから殴り返すことなど出来ず、自分の中に恐怖心を押し込もうとして、でも出来なくて、殴るよりもよっぽど相手を傷つける言葉を吐いてしまった。それは今も後悔しているし、死ぬまで後悔し続けるのだろう。
私は、初めて誰かに必要とされた。それが彼人だった。だから、無理をしてでも愛そうとした。その結果がこのザマだ。本当に彼人のことを思っていたならば、合わないなと思った時点で上手く距離を取るべきだったのだ。それが出来なかった。
私は誰かを心の底から愛せるのだろうか。もしかしたら、出来ないのかもしれない。でもきっと、それでいい。愛していなくても、誰かと互いに助け合って生きていけるのなら、きっと大丈夫。大丈夫だ。だから、私は常に誰ともフラットに接することにしている。いつか人生の伴走者と出会えることを祈って。