死は救済か

 先日、夢現な状態で、人が部屋に入ってくる気配と影が見えてすごく怖かった。しっかり目を開ければ誰もいない。この現象は何度か体験しているが、慣れることはない。私が真っ先に考えるのは、「殺されるかもしれない」だ。

 生と死は表裏一体で、分かち難いものだ。あるいは、地続きのグラデーションである。生きながら死に、死にながら生きていると言ってもいい。
だから、〝死〟そのものは怖くはない。
 けれども、その過程にある痛みは怖い。痛いのは嫌だ。できればサクッと死にたいものだ。
 だからこそ、私は今まで自殺企図をしなかったのだろうな、とも思う。飛び降りは失敗して下半身や全身不随になりそうだし、ODは搬送されれば胃洗浄だし、失敗すれば脳に後遺症が残る。首吊りだってそうだろう。
 それでも、死にたいと思ったことが無い訳ではない。
 地球が滅びてしまえばいいと何度も何度も願ったし、早く死んでしまいたいと思ったことも一度や二度ではない。早く楽になりたかった。

 自殺は最後の自己決定権だ、と言えるかもしれない。何もかもだめになって、何も選べなくなって、絶望して、そんなときの最後の権利。
 しかし、誰かがいなくなってしまうのは、胸を抉られるような、そんな気持ちになる。これは理屈ではない。美味しいものを食べたときに美味しいと感じて、楽しいことがあったときに楽しいと感じるように、誰かが死んでしまうとつらい。
 人身事故に怒る者が居るそうだ。信じられない。ひとの命よりも会社のほうが大事なのか?
 それは、自分の暮らしのほうが大事、ということなのだろう。それはそうかもしれない。それでも、誰かが死んでしまったことを悼む気持ちはないのだろうか。ないのだろうな。なんと冷たい人たちだろう。
 それでも、誰も悲しむ人なんか居ない、なんて嘘だ。どこかの誰かが死んでしまったと聞けば、とてもつらい。だから、火事や交通事故のニュースは複雑な思いで見ている。
 今日も、世界中で、事故や戦争(!)で亡くなっている人がいる。やるせない。その友達や家族のことを思うと、もっと。
 どうか理不尽に命を奪わないで。生きたいと願う人も、そうでない人も、他者に命を奪われることは決してあってはならない。ただ生きること、それは絶対的な権利だ。あなたは生きていてもいい。

 ただの我儘かもしれない。それでも、あなたには生きていてほしい。私のために、生きていてはくれないだろうか。
 生きていれば、すてきな隣人に出会えるから。もしかしたら、それは私かもしれない。
 どうか信じることを忘れないで。世界には、あなたと一緒に闘ってくれる人が必ずいるから。