今日は診察日だった。
昼はマックでバーガーを食べた。ワンコイン。
病院に行くため、特急に乗る。一人暮らしの家の近くにあるので、帰省している間は遠い。最近ようやく月に一度の通院になったので、少し楽になった。
鬱に原因はない。あるいは、多重的で特定できない。それでも、いくつか要因を挙げることはできる気がする。私の場合、アイデンティティが崩壊してしまったのがひとつの要因だと考えている。
かつての私は、前向きで、勉強ができて、自信家で、友達に囲まれていて、私は私だと思えていた。そして、私を見てくれている人がいると確信していた。だが、ある時を境に、私は勉強ができなくて、自信もなく、友達はひとりもいなくて、なにより、誰も私を見てくれないと思った。
いじめは被害者と加害者がクローズアップされるし、それが当然だと思う。だが、その周囲にいた人だって、立派な関係者なのだ。それを無視して、なにがいじめ問題だ。全くばかげている。
周囲の人間は、加害者にも被害者にもなり得る。そして私は、静かな被害者だったと思っている。それは自意識過剰なのかもしれないが、しかしこのことが私の心に大きな傷を残しているのは事実だった。私は訴えた。そこに加害があることを。だが、担任は事実を甘く見て、カウンセラーもそのことをまるで無いように扱い、私の切実な感情は透明にされてしまった。私は悲しんだ。ずっとずっと、悲しかった。泣いて泣いて、それで、私は私であることを放棄した。
自我なんか持たなければ、楽になれる。相手に合わせて、阿り、流されるままやり過ごす。〝人間〟の型にはまるよう、努力した。
他者が怖かった。だからそうなってしまったのだろう。だが、そんな生き方は、自分を殺すような真似は、気がつかないうちに多大なストレスを生んでいた。
自分で自分のことが分からなくなってしまった。
迷子だった。
今だって迷子のままだ。どう人と接していいのか迷っている。
それでも、少しずつ自分を見つけていくしかないのだろう。
自分探し、なんて言うが、自分は今ここにいるのだから、旅に出たってしょうがない。
ひとは比較と差異によってでしか物事を知ることはできない。ならば、わたしと誰かとを比較し、どこが似ていてどこが違うのかを少しずつ見つけていくことになる。
そして、他者と関わることは怖いものではないと知ることが必要だ。そう分かってはいても、怖いものは怖い。どうすればいいのかもわからない。
SNSは、じっくりと考えることができるし、生々しくないからあまり怖くない。
けれども、リアル(物理世界)ではそうはいかない。
すぐ答えを出すことを求められているような気がして焦ってしまうし、声音や表情から相手の感情などの情報が一気に入ってきてくらくらしてしまう。
ここまで書いて、なぜリアルにこだわるのか、疑問が湧いた。SNSだって十分にリアル(現実)だ。そこに居場所があるのならば、それでいいのではないだろうか。無理することはないじゃないか。
私は私の人生をやっていきたい。