トランキライザー

 私は人の居る空間が苦手だ。
 多く、人にとってストレスは人によって齎される。
 私の場合、その〝人〟というのは、同じグループに所属している者である。なので、たまたま電車で乗り合わせた他人なんかは平気だ。
 同じグループ。例えば、クラスメート。例えば、同僚。それらは皆、話しかけてくる可能性がある。それが怖いのだ。不安になる。
 私のコミュニケーションは上手いとは思えない。自分から話し始めることができないし、いつも失敗ばかりで、嫌になる。それに、否定されるのも怖い。自分の行為を否定されると、まるで自分そのものが否定されたような気持ちになり、心が縮こまってしまう。
 だから私にとって、会話はストレスだ。

 通説として、鬱の原因はストレスとされている。その要因のひとつに、強い不安がある。
 不安とは、言い換えれば、ネガティブな「かもしれない」である。失敗してしまうかもしれない、怒られてしまうかもしれない、嫌な思いになるかもしれない……。不安が不安を呼び、思考はぐるぐると同じ場所を回り続ける。ひとつの事柄に囚われてしまう。
 しかし、ネガティブな可能性があるのなら、同じくらいポジティブな可能性もあるのではないだろうか。成功するかもしれない、褒められるかもしれない、いい気分になるかもしれない。そもそも話しかけて来ないかもしれない。それらは皆、神のみぞ知ることである。
 私たちは神ではないから、全てを完璧に予測することなどできない。だから、自分の予想で不安になるのは愚かなことなのだ。不完全なものを信じるよりは、完全なる神を信じ、ネガティブな可能性もポジティブな可能性も信じることが、幸せへの近道である。断っておくが、ここで言う神とは、なにも「主」に限定されたものではない。ある人は猫を崇め、またある人は黒髪ぱっつんロングヘア美少女を崇める。信仰とはそういうものでいいのだ。

 さて、もうひとつの不安要素、自己の無能感と否定される恐怖。これは認知のゆがみである。
 我々の記憶は、良かったことよりも悪かったことのほうが残りやすい。だから、自分は駄目だと思い込んでしまいがちだ。だが、よく思い返してほしい。それほどまで失敗ばかりだったか? 例え一度だけだったとしても、成功したことはなかったか? また、行為と人格は別物である。作品と作者の人格が必ずしも似通っているとは限らないのと同じことだ。例えば、忘れ物をして叱られたとき、自分はなんて駄目な人間なんだ、と思うかもしれないが、行為が駄目だっただけであり、自分自身は常に良くも悪くもないのだ。もしくは、良くも悪くもある。
 これだからお前は駄目なんだ、と言ってくる人が居る。それは間違いである。人はいつだって変われる可能性を秘めている。だから、「これだから」と相手の在り方を固定させるような物言いは間違っているのだ。
 せめて自分だけでも、自分の可能性を信じてあげてほしい。あるいは、神は常にあなたの可能性を信じている。神とはそういう存在だ。

 この日記が精神安定剤になることを祈る。