年始から回顧

 今日は日記を移植しまくった。
 総数が50を超えていて、少しだけ感動した。一日のうちに複数書いてる日があるものの、ここには約2ヶ月分の日記があるらしい。過去を整頓したついでに、今日の日記は書きそびれた過去と、Blueskyにポストした内容の総集編でお送りします。

 まずは買い物。
 卓上スピーカーがイカれてしまったので、BOSEのスピーカーを購入。低音がずんと体に響いて最高。流石はBOSEである。
 クリスマスだし? 誕生日だし? と理由をつけてCDを買い、音楽をDLしていたら、いつの間にか6万ほど消えていました。怖い話ですね。しかし、後悔はない。私は金輪際サブスクを信じない。というのも、好きなアーティストの好きな配信限定シングルが大人の事情で消えてしまったからだ。あの時買っておけば、という後悔をもうしたくない。
 それに、サブスクのプレイリストは自分で作っても借りてきたような感じがするが、購入したデータで構築するプレイリストは端から端まで自分のもので作られていると思えて気持ちが良い。
 本棚やプレイリストを作るのは自己表現としての側面もあるんじゃないだろうか。自分はこんな人間なのだと自分で理解する助けになるし、ときに他者に示すためにもなる。(もちろんしなくてもいい)
 次にiPhoneSE。乗り換えてから早いもので1ヶ月が経とうとしている。親のiPhoneをたまに触っていたこともあり、iOSと私は相性が悪いことをよく理解していた。その上で購入したのは、利便性を考えてのことである。iPadを所有しているので、黙っていてもデータが共有されるのはやはり便利だと唸らざるを得ない。
 あとはスペックだ。もちろん、Androidのほうが安くてハイスペックな機種があることも知っているが、どいつもこいつも無駄に大きく重さもあって買う気はゼロになった。
 半年ほどCUBOT POCKETを使用していたが、さすがにカメラが終わってて駄目だわって話になり、ついでに音質も良くしたいなあと思い、そうしたら候補はiPhoneSEだけが残っていた。このサイズでこのスペックはだいぶ嬉しい。ちょっと高いのも許せる。いや許すな! Androidも頑張れよバカ!
 サービス面も決め手のうちのひとつだ。古い機種でもアップデートに対応してくれるのを見越して、こいつを何年も使ってやるぞという覚悟とともに購入した。
 しかし便利なことは便利なのだが、やはり心のどこかから、機械に使われたいのか、機械を使いたいのか。どっちだ?って声が聞こえてくる。オンボロスペースシャトルで飛ばなきゃ(使命感)

 効率的であることが賢いと言われるし、実際、時間を効率的に使って素早く完了させることが賢いのだろう。いちいちBluetoothをオンにして、送信と受信をそれぞれ選択し、もしくはファイルをアップロードしてそれをダウンロードし……とやるよりは、同期一発のiOSは素早くて賢い。まさにスマートだ。そういう仕事における効率の良さに価値を置くのは分かる。
 だが、それは人と機械との関わり方、とくに仕事での話であり、他のことにまで効率を求めるのは、なにか違うような気がするのだ。
 例えば、作品との向き合い方。倍速視聴は、作品を情報としてしか捉えていない。情報として扱えば、作品はコミュニケーションの道具として最適になるだろう。おそらく倍速視聴をする人々は、主眼をコミュニケーションに置いているのだ。きっと、作品はそのような扱われ方をも受け入れるだろう。作品とはそのように在る。
 人間関係にしたってそうだ。共通のコンテンツの話題で素早く距離を縮めるのは常套手段だが、そこからさらに深いところに行くのは、よほど対話が上手くなければ難しいだろう。だから会話は上辺だけで終わり、代替可能な関係性に留まってしまう。それは私からすれば、友達ごっこというおままごとにしか思えない。そう思いながらツテを作るためだけにやっているし、早くおままごとを脱して本質に迫りたいが能動的にそれを行う能力も熱意もないから、結果的にインターネットに張り付くことになる。
 孤独が苦ではないからこそ、交流を持つことがおままごとのように感じられるんだろう。私にとっては、食事のような必須のことではなく、無くても大丈夫だけどあると生活に変化が生まれる遊びでしかない。まあ人生には遊びもそれなりには必要ですからね。
 私は人の思考のコアが知りたい。呟きはコミュニケーションではないから、ときにそれは簡単に知ることができてしまう。そういう意味では、小説は上質な体験を齎してくれるが、ネットでのおやつかみたいな体験も好きだ。そしておやつの手軽さに甘えてそればかり食べがちなので、今年の目標は小説を読むことです。

 私はかつて親友と呼ばれたことが三度あるが、私の方からは自己開示も甘えることもできなかったから、本当に人間関係をやるのが上手くなくて閉じた人間なんだなあと思う。きっと私は受け止めるのが上手くて相手が気持ちよく自己開示ができるから、親友であると相手が勘違いするのだろう。
 私としては、無言の時間を無難に埋めるくらいなら、言葉数が少なくても価値観を交換したい。だが相手の一般的な会話に呑まれてしまって、私のやりたい会話はできないまま終わる。実につまらない。
 だけど、人生の中で一瞬だけ交わって離れていく関係性もうつくしいと思うから、それもまたありなのかもしれない。特定の人間関係に対する執着がないからそう思うのだろう。両親がどちらもそういう性質だから、私もそう。それは年賀状の枚数からも推し量れる。
 そんな親だから、私とのコミュニケーションもあまり豊かとは言えなかった。物心がつく前は本能で親のことが好きだったように思うが、それ以降はずっと、親は怖くてよく分からない存在だったので、今こうして仲良くなったのってかなりすごいことだなと思う。
 親が分からない頃は、代わりにネットで交流を求めたし本当の友達になった瞬間もあった。しかし、時が経つにつれて冷めてどうでもよくなって疎遠になってしまったし、唯一友だと思えた奴とも縁が切れてしまったから、もうtwitterをやる意味がなくなってしまった。
 誰にも移住先を告げずに引っ越したから、誰からも年賀状が来ない。それで良いと思っている。これもやはり、人間関係をその場限りのものだと捉えているからだろう。居場所が変わってツテとしての価値がなくなれば、それは必要のない存在になる。人によってはそれを薄情と言うのかもしれないが、依存しすぎるよりはよほどいいと思う。依存先が分散しているのが最良なのは分かっているんですがね。
 友人が少なくて困ることと言えば〝私の想定する普通〟からの逸脱でしかないので、かなりどうでもいい。そう、どうでもいいんだよ。私が快適だと思うのならそれでいい。その時近くにいる人と助け合うことができればそれでいい。なんだかんだ言っても"べき"に縛られてしまう。早く私を生きたい。
 ひとりで居ることを淋しいと思ったことはない。私には常に私が居るから。ひとりで完結している。
 しかし、やはりどこかの誰かには私を知ってほしいという気持ちがあるから、知ってもらう術として文章を書いたり、絵を描いたりするんだろう。
 なんだかんだ言ったが、やはり人はもっとどうでもいい話をするべきだ。非効率であるべきだ。あの雲が何の形に見えるとか、昨日見た夢の話とか、ちょっとした疑問とか、そういうものを。

 効率を求めることで取りこぼされるものがあるのなら、私は非効率を選びたい。丁寧に丁寧に観察して、考えて、あなたそのものを見つめたい。私だけの答えを見つけたい。常に想像したい。あなたの気持ちを。真に理解することはできなくとも、寄り添えるように。そういう気持ちを忘れたくない。そう思う。
 きっと、真にあなたを理解することはできないだろう。裏返せば、他者が真の「わたし」を認識することはなく、私もまた「わたし」を理解することなど不可能だ、という話でもある。
 それでも、「わたし」からこぼれ出た断片が「わたし」の輪郭を朧げに浮かび上がらせるだろう。断片ひとつひとつは記号かもしれないが、集まればひとつの生き物になる。
 人間は世の中を相対でしか見れないから、あるひとつを理解することは、他と比べてどこが似ていてどこが違うのかを確認する作業だ。