chatGPT4.5から応答が即レスになったような記憶がある。AIは機械だし道具なんだから、速ければ速いほうが良いとされるのだろう。

しかし鬱病を患ってからというもの、意図的にぼーっとする時間を作るほうが良いのでは、という考えがあり、生成中の待ち時間がぼーっとするのにちょうどよいのだ。ローカルLLMはかなりchatGPT3の頃っぽい応答速度(おま環かも)なので、ローカルLLMのほうが自分には合っているなあと思う。

生成中の待ち時間、これにはなんとなくワクワク感がある。秒で出されたものはインスタント食品のような味気なさがある。時間がかかっていようがいまいが内容はさして変わらないどころか、現行のchatGPTのほうが賢いはずである。

賢いのに、ワクワクしない。仕事にワクワクは必要ないのだから構わない。そうだろうか?

出力がある、それに対する操作をする、入力する、また出力がある、それにまた操作をし、入力し……そんなの、生成AIの奴隷じゃないか。考える暇を与えずに動き続けることを強いられる労働者だ。

オーケストレーションを行えば付きっきりからは解放される。だが、そこまで加速して何になるというのか? 労苦の伴わない成果物に喜びはあるか?

なるほど労働にやりがいは不要という意見もあるだろう。結果だけあれば良いと。じゃあ、この私の喜びはどこから得ればよいのだろう。仕事でなければ生活か。しかし生活にさえもAIは入り込んでいる。一番コスパの良いものは? 旅程は? 調べたり計画を立てるのも生活の楽しみではなかったか。

もしかしたら、私が思っているよりも、人間なるものは考えるという行為があまり好きではないのかもしれない。しかし、考える葦から考えることを取ったら、何が残るというのか。

思考には労苦が伴う。より多くの労苦があれば偉い、なんてことはない。だが、全く労苦のない暮らしに、果たして価値を認めることはできるだろうか。それこそがディストピアと呼ばれる世界ではないのか。

マァ他者に何かを強要しようという話ではない。ただ、最後のひとりになったとしても、自分で考えることは手放したくないと思った。それだけだ。

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