私の思考の引き出しには、思い出という部分がほとんど無い。

~っていつの話だっけ?とか~ってどこだっけ?と訊かれれば、情報というラベルの付いた引き出しから取り出して教えることはできる。

だが、そういえばこういうことがあってね、と自ら過去を語ることはほとんど無い。これは子供の頃からそうで、だから幼稚園や小学校での暮らしぶりが分からなくて親は困っていたらしい。

思い出とは、情報と感情が結びついたものを言うのではないだろうか。そして私は私の感情がよくわからない。だから思い出なるものも持つことができない。

類推能力はあるので、過去の出来事を参照して未来を推察することはできる。だが、そのときに個別具体の思い出は現れない。記憶の構造だけがそこにある。

これを知性と呼ぶことは容易だ。だが、解離と呼ぶこともできるだろう。だが今は、どのラベルを付けるかは保留にしておこう。

思い出話を聞かされたとき、どのようなリアクションだと喜ばれるのかが未だによく分からない。話したくて話す、これが求めるものは傾聴と共感だろうか。しかし話し言葉だけでどのようにして共感しろと言うのか。それにまつわる背景も情景も私は知らないというのに。

感情の基本についてはさまざまな議論があるものの、〈この私〉の説明には役立たない。

持論としてはこうだ。感情は快と不快とデフォルトの三項が基軸となっている。不快は悲しみと恐怖に大別され、不安、苦痛、倦怠、憂鬱へと分化する。快は喜びになる。デフォルトは集中か微睡みかのどちらかだ。

ご覧のように、快に該当する語彙がかなり乏しい。幸福、興奮、笑い……それらは知っているけれども、自分のものではない感じがする。

快・不快・デフォルトは、自律神経の働きとして説明できるかもしれない。快は闘争の交感神経、不快は逃走の副交感神経、デフォルトは迷走神経、というように。

そのように考えれば、かつての私には悲しみがあって怒りは無かったことにも説明がつく。

正誤はともかく、仮説としては面白いんじゃないかと思う。

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