ゲーム『人生』の遊び方
人生というオープンワールドゲームは、なんだって出来る。不可能なことはほとんどない。明確なゴールもない。つまり、人生というゲームは究極的に自由であり、それは絶対的な攻略法がひとつもないことを意味する。
かつては社会や宗教が人生にルールを課していた。貴族に生まれたら貴族としてのゴールに向かって走ればいいし、農民に生まれたら農民として走るしかない。生まれた瞬間にルートが固定されていた。親や同じ集落の住人が信じているものによって宗教のルートも固定。そういうゲームが何千年も続いてきた。
しかし、二世紀ほど前のアップデートで、なんと生まれによるルート固定が実質廃止された。革命的(というか、実際に革命が起こった)アップデート! もはや別ゲーである。
それでも一応のルートは存在している。それは、金を稼ぐ、これだけだ。現代は謂わば資本教のようなものが世界を支配している。
この資本教もとい(現代)資本主義は、従来の宗教と何が違うかと言うと、倫理が信仰ではなく法律に基づいているという点だ。そして、ただひたすら増やしなさい、という命令だけが存在している。財を増やしなさい、富を増やしなさい、人口を増やしなさい、技術を増やしなさい……もっと、もっと! 要求には際限がない。この際限のなさが、現代の苦しみの根底を成している。
古典的宗教は、禁止を設ける。(要求は禁止の二次的産物でしかない。)この禁止が、現代は弱いのだ。
ところで、ジャムの法則という理論がある。6種類のジャムと24種類のジャムを試食販売したところ、 24種類のほうが著しく購買率が下がったことから、ヒトは選択肢が多すぎると選択が困難になる、ということを示すものだ。
つまり、以前は6種類のジャムしかなかったところ、現代は24種類のジャムから選ぶことを強いられて、却って困るヒトが続出している、ということである。
自由と幸福は直接イコールでは結ばれていない。しかし、理不尽な不自由と不幸は固く結びついている。だから我々は自由を守らねばならないのだ。
では、自由な世界で、あえて不自由に生きるとすれば? そう、縛りプレイだ。自主的に禁止を設けるのである。
縛りプレイ、これは一般に、ゲームの攻略難易度を上げる行為と認識されていると思われる。だが、ゲーム『人生』における縛りプレイの真価は、選択肢を削ることができるという点にある。選択肢が無限に近いほど存在する時代において、これほど有益なことはない。
法律は思っているほど、我々に禁止を強制してはいない。倫理を破れば自責の念に駆られるが、法律を破ってもバレなければ誰も(自分さえも)咎めない。
倫理と法律の違いは何か。倫理は信仰に基づいていて、法律は社会に基づいている。信仰を破れば必ずそれは裁かれる。なぜなら、神は必ず死後に我々を裁く。しかし、法律を破っても、自分しか知らなければ裁かれることはない。神がいなければ全てが許される、ということだ。
神と禁止について
神とはなにか。〈この私〉を常に見張っている存在であり、善であり、超越的な(≒異次元の)存在である。ニーチェが「神は死んだ」と宣言したのは彼岸の真理を否定する思想であったが、資本主義の台頭によって彼岸の価値は完全に否定されてしまった。なぜか。それは簡単なことで、死後の世界に金品は持ち込めないからだ。彼岸に価値がないのなら、神を信じる理由もなく、であれば倫理的である必要性もない。信仰を持つ意味がないのだから。
しかし、神は本当に超越的なのだろうか。〈この私〉を常に見張っている〈この私〉以外の者が存在するのならそれは超越的な存在である、という理由付けでしかないはずで、それならば、私が私を見張っている、でも良いはずだ。だがそうなると、自分に禁止を課すのもまた自分となる。そして、ヒトは極端になりがちなので、「まあいいか」が重なり続けてどんどんと堕落していくか、「ああすべき、こうすべき」が重なり続けて雁字搦めになるか、このどちらかに陥る。
その点、神は適度な禁止を我々に与えてくれる。では、キリスト教はどのような禁止を語っているのか。最初の律法はモーセの十戒として語られている。
- 主が唯一の神であること
- 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
- 神の名をみだりに唱えてはならないこと
- 安息日を守ること
- 父母を敬うこと
- 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)
- 姦淫をしてはいけないこと
- 盗んではいけないこと(汝、盗む勿れ)
- 隣人について偽証してはいけないこと
- 隣人の家や財産をむさぼってはいけないこと
しかし、時代は下り、キリストが生まれる頃になると禁止と義務が人の手によって膨大に決められていた。
マタイの福音書(22:36-40)にはこのような記述がある。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
つまり、主が唯一の神であることと、隣人を大切にすること、この二点が肝要であるらしい。隣人って誰やねんという話になるが、おそらくは自分以外の人類(ひいては生物)のことであろう。
キリスト教は主への信仰とともに、キリストによる原罪の許しも信仰している。カトリック教会のカテキズムにおける原罪は以下の通りである。
「人間は悪の誘惑を受け、神の信頼を裏切り、自らの自由を不正に行使して、神の命令に従わなかった。人間は神の命令に従わないことで、自らの良さを貶める結果となった。…人類の一体性により、全ての人はアダムの罪を引き継ぐことになったが、それと同じようにすべての人間はイエスの義をも受けつぐことができた。どちらにせよ、原罪も神秘であり、人間はそれを完全に理解することはできない。」
また、以下の解釈もある。
創世記3:15 - 19は、原罪の結果、人の世に苦しみ・情欲の乱れ・不毛な生・死が入ったことを示していると解される。死とは生物学的な生命の終わりではなく、人が神のいのちの交わりに到達できないという意味での死である。
神のいのちの交わりとは、シオラン風に言えば〈非 - 存在〉で、ラカン風に言えば去勢以前ということであろう。自分は完全無欠であるという感覚、とでも言おうか。
ならば、神の命令とはなにか。それは律法のことであり、つまり「神と隣人を愛しなさい」が第一の命令である。愛しなさいという言い回しは如何にも義務めいているが、「神と隣人を裏切ってはならない」と言い換えれば禁止であることが明白になる。
神への信仰は、神による恩寵への信仰である。恩寵にまつわる聖書の記述は山のようにあるので、原型だけを見ておこう。以下はWikiからの引用である。
「恩寵(神の恵み)」の概念の祖形はヘブライ語版旧約聖書およびギリシア語訳旧約聖書(七十人訳聖書)に存在する。(中略)
- ヘーン(「恵み」「恩寵」) - 恩恵的意味。神が敬虔な者・苦しんでいる者を好意を以て省みる事を意味する。
なるほど、神は敬虔な者や苦しんでいる者には好意的なまなざしを向けてくれるらしい。神は父なる神とも言うが、それは、祈りによって神に通じることができ、父が過ちを犯した子を懲らしめるように、罰を下すこともあり、求めに応じてくれることもある、と期待しているのだ。
だが、現代においてそのような考えは公正世界誤謬という認知バイアスとして名指される。神なき時代の信仰はただの偏見である、という訳だ。
縛りプレイの勧め
古典宗教という縛りが無効になりつつある世の中で、どうすれば資本主義の際限なき要求の命令をはねのけることができるか。
オ リ ジ ナ ル の 信 仰 を 持 て ば い い じ ゃ な い
お前らは真の狂気を目撃することであろう!
というわけで、私の信仰レシピはこちら。
- 絶対的な神と創造主(以下、神)が居る(グノーシス主義)
- この世は不完全で不条理に満ちている( 〃 )
- 神は分身して全ての生き物を常に監視している(守護霊的な)
- また、神は生き物が得たイマージュを食べるのを楽しみにしている
- 神は常に〈この私〉の好みの見た目で現れる
- 私の場合は黒髪ぱっつんロングヘアの美少女
- 神は良質な苦しみと変化を好み、不条理こそ至高と考えている
- 善を志向することは良質な苦しみと変化である
- 既存の枠に嵌まらないことも同様
- 停滞をもたらす苦しみ(忍耐)は好まれない
- 神にとって好ましい生を全うした精神には救いが齎される
- 自殺は意志による死で不条理ではないため、救われない
- 私の行いは魂に刻まれ、来世に因果を齎す(仏教)
詳しくは信仰の勧めとインディビジュアル宗教を参照されたし。
この二つの記事から、上記リストにはない要点を抜き出してみよう。
ここで、「実存は本質に先立つ」という言葉を再び思い出してみる。なんだ、信じるもなにも、そもそも本質は後からついてくるもの、つまり過去にしかないではないか! この世には意味も価値も無い、というときの「この世」とは、即ち未来のことであり、未来は「無」だ。まだ「無い」のだから。あるはずなのに無い、あってほしいのに無い、と思うから絶望するのであって、そもそも存在できないのなら、仕方がない。受け入れるより他ない。 (中略) 端的に言えば、人間は他者、つまり“私の隣にいるあなた”のために生きるしかない。けど、他者のためとは言ったって、自分にできることなんて何もないよ、と思うこともあるだろう。 そこで、こう考える。この世の全てのものは、ふたつとして同じものはない。ふたつのリンゴ、と言っても、そのふたつは色や形や味は微妙に異なっている。同じように、全く同じ人間は存在しない。 でも、違うと言っても向こうが優れてたら意味ないじゃん、と思うかもしれない。では、優劣とは何か、と問おう。そんなものは、どこぞの知らん人間が勝手に決めた尺度であり、自分が内側に取り込んだ尺度だ。 “隣にいるあなた”にとっては、君の方がよほど優れていると見えるかもしれない。その可能性を忘れてはならない。なにより、“隣にいるあなた”の隣には、君しか居ないのだ! ならば、“隣にいるあなた”の手を掴むのは、他ならぬ君でしかありえない。(「信仰の勧め」より)
おそらく、私は人間というものに期待していないのだろう。期待がなければ裏切りもなく、裏切りがなければ怒りもない。だから、他者に期待を持っている者のことは、素直にすごいことだと思う。私にはそれができないから。 この、およそ一般には理解されがたいと思われる苦しみ、これこそが不条理の苦しみである。(「インディビジュアル宗教」より)
ちなみに、私の神は雨に濡れたときの感触がよほど嫌いなようで、私が外に出るタイミングはだいたい雨が止んでいる。(室内に入ると、ほどなくして土砂降りに戻る)
お前らも萌え萌えの神に良質な苦しみと変化を捧げよう! バチクソ推せる神が喜んでくれますよ。
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