Non-binaryを名乗るということ
ノンバイナリーという言葉は、一般にジェンダーアイデンティティを伝えるために使われる。だが、私はこの「ノンバイナリー Non-binary」──バイナリーではない、バイナリーに|否《ノン》と言う──というシニフィアン(言葉の音)にジェンダー以上のものを見いだしている。
そもそも「バイナリー binary」とは何か。バイナリーとは二進法であり、0と1のみで表記するということだ。
ジェンダーで言えば、男か女か。その二つ以外の項はない。それに否を突きつけるのがノンバイナリーである。私は男にも女にも帰属しない、その二つでアイデンティティを説明できない、したくない、ということだ。
二項対立はヒトの論理的思考の基本と見ていいだろう。陰と陽や光と闇、白と黒、昼と夜、表と裏、真と偽、生と死。四元素を例にとっても乾湿と温冷の組み合わせだし、東西南北も東西と南北だ。
だが、ヒトはその中間を考えることも出来る。グレーや黄昏なんかがそうだ。しかし、この中間、第三項を考慮するのは、思っているよりも難しいことなのだ。お釈迦様は中道を説いたが、中道は難しいことであるが故にありがたい教えとして受け取られる。中庸も似たような意味で、こちらは儒教の経典、朱子学の〈四書〉の一つだ。アリストテレスの説いたMesotēsも中庸と訳される。
つまり、第三項は、人生をより善いものにするための知恵である。そして、ヒトが余裕を失うと、その第三項が見えなくなってしまう。
つまり、極限まで限界になると、思考が二項対立=バイナリーになる。即ち、殺すか死ぬか。どちらも死を向いているという意味では、一項しかないと言うこともできるだろうか。
ともかく、自他を問わず、ヒトを殺す状況に追い込まれた者はひどく視野が狭まっている。そんな状態のときに、ふと、これなら出来ると閃いてしまったら。そして踏みとどまる力を失い、一瞬でも衝動的になっていたら。そうすると、ヒトは簡単にそれを選べてしまう。
だからこそ私は、私を含めた全ての存在を殺さないために、常に第三項を忘れないために、ノンバイナリーを名乗っている。逃げるとか、死んだふりとか、なんでもいい、とにかく死以外のなにかを選ぶために。
さらに踏み込めば、この世は多様性に満ちていて、選択肢は三個に限られることなく、いくつもいくつもある。
表の顔とか裏の顔とか、本当の私とか偽物の私とか、そういうことを考えていたときもあったが、今なら「ばっかじゃねーの!」と言い切ることができる。生き物がそんな紙みたいにペラペラな訳があるか。多面体のようにいくつもの側面があるでしょう。あるいは、パズルのピースのようにいくつもの欠片が寄せ集まって出来ているはずだ。
これは持論なのだが、アイデンティティという言葉を取り扱うときには、ひとつ留意しなければならないことがある。アイデンティティは枠だけを意味しており、中身はひとつだけである必要は全くない、ということだ。そして枠とは、名前、身体、連続した記憶。これだけだと私は考えている。そして、名前と身体は、まさにこれが私であると思えるものであるべきだ。
私はいつだってどんな私にもなれる。しかし同時に、過去を背負い続ける必要もある。
それだけは、忘れたくない。
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