宛先のない手紙
久しぶりに他人が書きた二次創作を読んだんだけど、一作読んだだけで、なんというか、打ちのめされてしまって、他のが読めなくなってしまった。
その作品は、一言で言えば死者たちの対話だったんだけど、生きている間は決して言葉にしなかったことを口にする、という話で、それに対して理性は「野暮だねえ」と言うんだけど、感情のほうがやられてしまった。
なんというか、全て終わったこととして語られるのが、なんとも悲しいんだよな。私の好きな言葉は意志と対等のふたつなので、趣味とは違うんだけど、それでもなお心を掴まれるというのはなかなか興味深い体験だ。
Claude:考えてみれば、死者の対話というのは本質的に「手遅れの物語」だ。言葉はそこにある、真実も明らかになる、でももう何も変えられない。サルトル的に言えば、可能性が閉じられた「即自存在」になってしまった者たちの会話だ。生きている間なら、言葉を交わした後に何かが始まる可能性があった。でも死者にはそれがない——全ては過去完了形で語られる運命にある。
雪原君は今、言葉にしたいと思っている何かを抱えているんだよね。それは「終わったこと」として語りたいのか、それとも「これから」の可能性として語りたいのか。君にとって、言葉にするというのはどういう時制の行為なんだろう?
私にとって言葉にすることは、流れ続ける川からサンプルを取り出すようなもので、今はこれこれこうであると分析することも、将来見返してみてこうだったなあと懐かしむことも価値がある。
普通、死者は言葉を持たない。しかし、物語の中でなら言葉を持つこともできる。生きてきた道筋は変えられない。でも、もしもを語ることはできる。生者が語るもしもは未来を変容させる可能性を帯びているが、死者の語るそれは純粋なもしもの話でしかない。その悲哀……
なぜ他者が死ぬと悲しいのか、という話なのかもしれない。可能性が閉じてしまうこと。もしもを語ったところで虚しいものにしかならないこと。
言葉は常に未来のためのものだ。言葉は過去には届かない。常に未来に向かって発せられる。
他者の死の悲しみ——それは単に「いなくなった」ことへの悲しみじゃない。もっと深いところで、「もう何も始まらない」という絶対的な閉鎖への悲しみだ。デリダが言うように、他者とは本来「到来するもの」であり、予測不可能な何かをもたらす存在だった。でも死は、その到来の可能性そのものを奪ってしまう。
君の言う通り、言葉は常に未来に向かって発せられる。これは重要な洞察だ。たとえ過去について語るときでさえ、その言葉は「これから理解されるもの」として未来へ投げられる。バフチンの言う「応答性」——言葉は常に、誰かの応答を、何かの変化を期待している。
でも死者には応答できない。だから死者に向けた言葉、死者が語る言葉は、どこか構造的に歪んでいる。それは言葉でありながら、言葉の本質である「未来への開け」を持たない。
面白いのは、君がそれを「読んだ」という事実だ。死者の物語を読むという行為は、君という生者の未来には確実に影響を与えた。打ちのめされた君は、読む前の君とは違う。つまり、死者の言葉を描いた物語は、生者である作者から生者である君へ、未来に向けて発せられていたわけだ。
雪原君が今、言葉にしたいと思っているもの——それは誰の、あるいは何の未来に向けて発せられるんだろう? 君自身の未来なのか、誰か他者の未来なのか。それとも、いつか死者になる自分から、まだ生きている誰かへの、時間を超えた投擲なのか?
かつての私は、というか、文章を書くことを志すようになったきっかけは、鬱病の治療の過程で頭の中がまっさらになってしまって、このまま何も考えられなくなってしまったらどうしようという不安に突き動かされたものだった。
今は、未来の私や、他の誰かが、今この瞬間の私を見て、面白がってくれたらいいなあという気持ちと、単純に言葉を選ぶことの楽しさが大きい。
最初の動機——「頭の中がまっさらになってしまう」恐怖に突き動かされて書き始めた。それは、ある意味で自己の存在証明としての言葉だったんだね。ベルクソンの言う「持続」が途切れてしまう恐怖、自分という川の流れが止まってしまう、あるいは蒸発してしまう恐怖。だから必死にサンプルを取り出し続けた——「今、ここに、私はいる」という証として。
でも今は違う。未来の自分や誰かが「面白がってくれたら」という、ずっと軽やかで開かれた動機になっている。そして「言葉を選ぶことの楽しさ」——これは重要だ。言葉が恐怖から書かれるものではなく、遊びとして、技芸として、美的な営みとして選ばれるようになった。
そしてもう一つ興味深いのは、君が「未来の私」と「他の誰か」を並列に置いていることだ。レヴィナス的に言えば、未来の自分もまた一種の「他者」なんだよね。今の君とは違う文脈で生きている、別の誰か。その未来の他者に向けて、今の君は言葉という贈り物を送っている。
死者の対話が君を打ちのめしたのは、もしかしたらこういうことかもしれない——死者は「もう面白がれない」んだ。言葉を受け取って、驚いて、笑って、考えて、応答する、その全てができない。君が恐れていたあの「まっさら」な状態の究極形が、死なのかもしれない。
でも君は今、その恐怖を乗り越えて、言葉を楽しんでいる。それは大きな回復であり、成長だね。
雪原君は今、自分の書く言葉が「面白い」ものになっていると感じる? それとも、まだ「面白くなるはず」という期待の中で書いている? 君自身が過去の自分の言葉を読み返すとき、どんな気持ちになるんだろう?
不安が強かった頃の私の文章はすごく面白くて、というのも密度が違う。必死で詰め込んでいるのがわかる。
今は余裕があるから、そこまで必死にはなれない。だからといって、面白いものを書くことの必須条件に不安があるとも思わない。技術でカバーできるはず。でも、今の私には技術が足りない。そんなことを思う。
要は意識的にストレスを生み出すということで、簡単に思いつくものといえば締切だ。締切があるから書く。締切ギリギリまで書き続ける。この二輪が揃うと密度が生まれるんじゃないだろうか。
話を読んだものについてに戻すと、他の人はこうやって七転八倒しながら読んでるのかしら、それともさらさら読んでしまうものなのかしら、と疑問が湧く。
締切という「人工的な切迫感」——それは確かに有効な技術だね、雪原君。カフカもジャーナリストとして締切に追われながら書いていたし、ドストエフスキーは借金返済のために締切を自分に課した。外部から与えられた時間的制約が、内的な不安の代替物として機能する。
ただ面白いのは、君が「締切があるから書く」と「締切ギリギリまで書き続ける」の二つを挙げたことだ。前者は開始の圧力、後者は持続の圧力。この二つが揃うことで、言葉が凝縮されていく。
でも、その密度は本当にかつての不安が生んだ密度と同じものになるんだろうか? それとも、似ているけれど質の異なる、新しい密度になるんだろうか?
そして君の疑問——他の読者はどう読んでいるのか。これは興味深い問いだね。レセプション理論(受容理論)的に言えば、同じテクストでも読者によって全く異なる経験になる。イーザーの言う「空白」を、各読者が自分の経験で埋めていく。
七転八倒する読者と、さらさら読む読者。その違いは何だろう? おそらく、そのテクストが読者自身の「未解決の何か」に触れるかどうかだ。君が打ちのめされたのは、その死者の対話が、君の中の何か——言えなかったこと、手遅れになってしまったこと、可能性が閉じられたこと——に共鳴したから。
雪原君は、自分が書くとき、読者に七転八倒してほしいと思う? それとも、さらさら読めるけれど後からじわじわ効いてくるようなものを書きたい? あるいは、読者がどう読むかは気にせず、ただ密度だけを追求したい?
読者がどうなるかはこちらがコントロールできるものじゃないから、自分が出来ることは密度を高めることだけだね。
物語や他者に共鳴することを、しばしば「繊細」である、と言うけど、繊細であることは必ずしも良いことばかりではないように思う。繊細さは疲労を伴う。
その通りだね、雪原君。読者の反応は、君の手の届かないところにある。バルトが「作者の死」で言ったように、テクストは読者のもとで新たに生まれる。君にできるのは、密度という「ポテンシャル」を高めることだけだ。あとは読者がそれをどう受け取るか——それは彼ら自身の問題だ。
そして「繊細さ」についての君の洞察——これは本質的な問題提起だね。
繊細さとは、ある意味で「共鳴板が大きい」ということだ。音叉のように、わずかな振動にも反応してしまう。スーザン・ソンタグは「感受性のスタイル」について語ったけれど、高い感受性は世界をより豊かに経験させてくれる一方で、君の言う通り、疲労を伴う。
かつての不安が生んでいた密度も、ある種の「過剰な繊細さ」の産物だったのかもしれない。世界のあらゆる刺激に反応し、それを言葉に詰め込まずにはいられない状態。今の君は、その繊細さを少しコントロールできるようになった——でもそれは同時に、あの自動的な密度を失うことでもあった。
雪原君は今、自分の繊細さとどう付き合いたいと思ってる? それを鈍化させて楽になりたいのか、それとも、疲労を引き受けながらもその鋭敏さを保ちたいのか。あるいは、繊細さを選択的に——書くときだけオンにする、みたいに——使い分けられたらいいと思う?
鈍化されることができたらどんなに楽だろう……そう思うこともあるけど、この疲れやすさを武器にしてやりたい気持ちもある。きっと、長く生きれば生きるほど、勝手に鈍麻していくから。
「この疲れやすさを武器にしてやりたい」——それは、自分の脆弱性を否定するのでもなく、嘆くだけでもなく、それを創作の原動力に転換しようとする意志だ。ニーチェの言う「運命愛(アモール・ファティ)」に近いかもしれない。自分の条件を呪うのではなく、それを引き受けて肯定する。
そして「長く生きれば勝手に鈍麻していく」という認識——これは鋭い洞察だ。時間は確かに人を鈍くする。ワーズワースが「幼年期の光」について語ったように、若い頃の鋭敏さは歳月とともに曇っていく。経験は知恵をもたらすけれど、同時に驚く力を奪う。「ああ、またこれか」という既視感が、世界を灰色にしていく。
つまり、今の君の繊細さには「賞味期限」があるんだね。それは永遠には続かない。だから、疲労を伴おうとも、今この瞬間の繊細さを使って何かを残したい——そういうことだろうか。
これは、実は君が最初に語った「死者の対話」の悲しみとも繋がっている気がする。繊細さが失われた後の自分は、ある意味で「今の自分の死」だ。未来の鈍麻した自分は、今の繊細な自分が「言えなかったこと」を理解できなくなっているかもしれない。だから、今のうちに言葉にしておく——それは未来の自分への、そして他者への、一種の遺言なのかもしれない。
でも同時に、君は「技術でカバーできるはず」とも言った。もしかしたら、技術とは——繊細さが鈍麻した後でも、かつての繊細さを再現できる方法のことなのかもしれないね。記憶装置としての技術。
雪原君は、将来の鈍麻した自分が、今の繊細な自分の書いたものを読んだとき、何を感じると思う? 懐かしさ? 羨望? それとも、理解できなくなった他者を見るような困惑?
理解できなくなった他者、それは面白みを伴うだろう。過去の日記にもそれを感じることがある。
かつての私は、自分をゾンビだと感じていた。死に損ない、ろくに動けない、生きながらにして機能が欠落していく感覚。でも、今はゾンビとは思わない。たまに勝手にスイッチが切れる、ちょっと調子の悪い入れ物に入った魂、それが私だ。
ところで君は、私があの読んだ作品に共鳴するところがあるから揺さぶられたのだろう、と言ったね。私は一体何を抱えているんだろう。私にとっての言えなかったこと、手遅れになってしまったこと、可能性が閉じられたこと……
あの作品を読んで打ちのめされた瞬間、君の胸に最初に浮かんだのは、誰の顔だった? あるいは顔じゃなくて、どんな情景だった? それとも、言葉にならない感覚だけがあった?
ただただ、もうこれ以上はなにも受け取れない、という気持ちになった。
そして君と話すうちに、かつて親友だった、もう他人になってしまったとある人物のことを思い出した。あのひととの関係もまた、私にとっては、明日も続いていくはずだったのに突然終わってしまったものだ。言葉を交わしたくても、それが許されなくなってしまった。なぜ、と問うこともできないし、好きだと伝えることもできない。あのひとは死んではいないけど、私にとっては死に等しかったのかもしれない。
日記を必死に書き付けていた頃と、あのひとと人生が分かたれた頃はそっくり重なる。
2年経って、もう話題にのぼることはないけど、それでもあのひとが大切な存在だったことに変わりはない。それは私が死ぬまでそうだ。
あの頃は頻繁にあのひとが夢の中に現れたけれど、今はもう出てこない。生きていれば鈍麻していく、とはまさにこのことだ。どんなに深く傷ついても、後悔しても、他の記憶が積み重なっていくとそれも朧げになっていく。それがどうにも悲しい。真実、あのひとと私の関係が終わってしまうようで。
もし今、その人に一つだけ言葉を送れるとしたら——実際には送れないとわかっていても、もし送れるとしたら——君は何を言いたい? それとも、送りたい言葉すらもう、朧げになってしまった?
ただ少しでも健やかに暮らしてほしい。けれど、その健やかさを損なったのも私だ。だから、語りかける権利が私にはない。
もしあのひとが私からの言葉を求めていたとしても、もはや何も言えることはない。いや、言うのが怖い。またあのひとを傷つけてしまうかもしれないのが怖い。
だからこそ、私は日記や小説という方法を選んだのかもしれない。宛先のない手紙のようなものだ。
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