詩を読む

 六時頃に目が覚め、その後は意識があったりなかったりした。
 七時、寝るのに疲れてきたので、ツイッターを徘徊する。
 起き上がってみるが、やることもなし、やりたいこともなし。
 スーパーに行き、パンを三つ買って、食べた。これがただの代償行為にすぎないことは分かっている。
 相変わらず、今日も私はからっぽだ。腹を掻っ捌いてみても、頭をかち割ってみても、そこには何も無いかもしれない。そんな馬鹿なことを考えてみたりする。
 布団の中で本を開くが、意識が遠のく。二時間ほど眠ったが、疲れた。今までずっと、起きていたくても眠ってしまう、という状態だったので、気分だけは不眠症のそれに近い。
 肉体。煩わしい物。それでいて、無くてはならない物。
 ボードレール。芥川龍之介も、シオランも、レヴィナスも彼に言及している。何者なのかを確かめるべく、私は図書館へと向かった。『ボードレール詩集』を見つけ、二時間程かけて読んだ。読んだ直後は、何がすごいのかが全く理解できなかったが、のちに考えを改めることになる。
 哲学の棚へと向かう。向かって右奥の棚の、一番下にシオランの『生誕の災厄』が置いてあった。明日はこれを読もうと思う。
 図書館を出ると、すっかり陽が沈んでいた。案内板の前に、若い女(と見られる)二人組がおり、信号を待っている間に彼らを眺めていると、おもむろに自撮りを始めた。こんな暗い中で、つまらない背景で、顔面を撮影して何になるのだろう。まあ好きにすればいいのだけれど。
 程なくしてやってきた市電に乗り込む。車内には、中学生か高校生かといった風貌の二人組と、若い女が座っていた。
 ふと進行方向に目を向けると、淡い黄色の和服に身を包み、素直な長い白髪を後ろで縛った男が、立ちながら本を読んでいた。男はこの上なく景色に馴染んでおり、それと同時に、この上なく私の好奇心をくすぐった。なぜ敢えて和装なのか、髪を伸ばしているのか、その眼鏡の奥の瞳が追いかける活字はどんな内容なのか、イヤホンからはどんな音が流れているのか、等々。彼は私の目的の駅の二つ前で悠然と降りていった。
 視線を前に向けると、若い女が目に入る。やたらと足が細かったことだけが印象に残った。その足には、余人には分からぬ苦労が込められているのだろう。
 電車を降り、家へと向かう。一目惚れ、という言葉があるが、それは好奇心と性欲なのではないか、いや話はそんなに単純ではないはずだ、いやいや人間なんて単純なものだ、などと考える。未だに恋がなんたるかが分からない。いつか実感する日が来るのだろうか。橋に差し掛かる。何のイベントなのか、それとも私が知らないだけでいつもそうなのか、橋に青の電飾がこれでもかと括り付けられていた。綺麗なのは一瞬で、あとは金の無駄遣いだな、としか思えなかった。
 さて、ここでようやく、ボードレールのすごさを理解することになる。即ち、己の「まなざし」の変化だ。「他者」が見える。「他者を見る私」が見える。詩を読むという行為は、書き手のまなざしと思考の追体験だ。ボードレールに手を引かれて行く先には何があるだろう。
 帰宅し、アクエリアスを飲むと、全く味が感じられなかった。甘味はどこかへと飛び、かすかな塩味だけがあった。一体どういうことだ。チョコレートの匂いはしっかりと感じ取れたので、コロナではなさそうだが……。
 今までほとんど読んだことのなかった詩というものを真剣に読んだからかなんなのか、脳の疲労感がすごい。というか、若干気分が悪い。美しく整えられた言葉のレールの上を走っていたと思ったら、突然オフロードに投げ出されたような気分だ。オフロードの脳内は、猥雑で、喧しい。ディスコ宜しく、常に音楽が流れている。止めよう止めようと意識するのは息を止めるのに等しく、でなければ何かを脳内で話し続けなければならなくなる。脳内の音声のことを内言と言うらしいが、これが黙ったのは抗うつ薬を飲み始めた頃ぐらいではないだろうか。
 悪酔いにも似た感覚を覚えつつ、とりあえずパスタを食べる。そして薬を飲む。