110円の元気
昨日は六時に寝たらしく、一時手前で目が覚めた。風呂に入っていないので頭皮が痒い。
再び寝て、朝の六時。
最近はブルスカのタイムラインしか見る元気がない。いや、興味が薄れたと言うべきか。同好の士と集うのは楽しいのだが、そればかりだと食傷気味になるというか、なんというか。今は作品とふたりきりになりたい気分なのだ。
空前絶後の金欠状態。薬代として三千円を前借りすることに。バ先②へ向かうのに使った一万があればこんなことにはならなかったはずである。早く回収させてくれ。
診察。相変わらず部屋が汚いままで、しかし片付けるような気力もなく、そもそも起き上がり続けようという気にもならないので、もう少しだけ改善してほしいと打診。ラツーダが五割増えた。薬代は十九日分で二千九十円。日割り計算で百十円。百十円で元気が買える時代。
そろそろ自立支援受給者証の期限が切れるので、診断書を書いてもらう。三千円。財布にそんな大金は入っていないので、カードを切って親に支払いを押し付ける。
帰ってから昼飯を用意するような気力があるとは思えなかったので、今日もマックへ。明日もきっとマックを食べる。五百円でタンパク質と炭水化物と野菜を摂ることができ、ついでにジュースも飲めるのだから、コスパ最強だと思う。
気力がない、と書いたが、鬱の無気力さというよりは、意図的セルフネグレクトだと思う。食への意欲が薄いのもある。「生活」が崩れるのは一瞬だが、元の状態に近づけるにはとてつもない努力が要る。少しずつ、やっていくしかない。
電車で移動。駅から出た途端、なかなか勢いのある雨。仕方がなし、駅直結のスーパーを意味もなくうろつき、時間を潰す。金がないと言いつつも、甘い飲み物がないと元気が出ないので、果汁100%のりんごジュースを購入。
味のついた飲み物というカテゴリーで言えば、コスパ最強なのは鶴瓶の麦茶パックというのは有名な話かとは思うが、二番手は百円のアクエリアスの粉だと思う。むしろ、腐る心配がないという点も込みで考えると、アクエリアスの粉に軍配が上がる。
エアコンのかかった部屋で、半裸になって布団の中に入ることほど幸せなことって無い。(全裸は乳が邪魔になるので駄目)
なんだかこのままではいけない気がして、まずマストドンjpを久しぶりに訪ねた。前回見た時とはまた住民が入れ替わっているように思う。どちらかと言えば過疎いローカルタイムラインでは既に出来上がったコミュニティが目立ち、付属高校のある大学に外から入学したような感じになった。読書タグをちらりと覗くと、さすがは分散型SNS、さまざまな鯖からのポストが読めてなかなか面白い。
次に、ミスキーにはどんな鯖があるのかな、と覗いてみる。私を端的に説明するとなると、やはり二次元オタクという側面が強いので、にじみすにアカウントを作った。ミスキーは絵文字がとにかく多い。把握しきれない。
西の方で大地震が発生。タイムラインが地震の話題一色になってしまったため、今日のところは撤退。遠い地の災害に対して、私はあまりにも無力だ。
次に、ディスコードの「思想・哲学・文学・芸術の会」という鯖に入り、過去ログを眺める。
そんなこんなで七時になり、空腹感を覚える。重い腰を上げて米を炊き、カレーを食べた。買い置きのレトルトカレーがなかったら塩をふりかけて食べるしかなくなるところだった。それもまた旨いが。最近はずっと、夕飯を食べずに寝てそのまま次の日の朝、という流れだったので、夕飯を食べたのは本当に久しぶりだ。
昨日は孤独についてちろっと書いたが、孤独と淋しさは別物だよな、と思った。淋しくないから孤独でもいいのか、と言えば、そうではない気もする。しかし、それは社会からの刷り込みで、本当はそんなことはないのかもしれない。しかし、私がなぜこうしてつらつらと日記を書き、そして公開しているのか、と問われれば、孤独を解消したいから、という答えになるだろうか。実に受動的である。能動的に孤独を解消するには自己開示が不可欠だが、私は今までそれを学ばずに生きてきてしまったし、これからも生きていくのにさほど支障はないだろう、とも思う。
そもそも、現代日本における人間は、皆が皆、孤独を癒してくれるような関係性を築いているのか、という疑問が立ち上がってくる。会社に勤めるようになってから友達が居なくなった、という発言をよく耳にする。つまり、私だけが孤独なのではなく、謂わば一億総孤独時代と言えるのではなかろうか。
この世に娯楽が溢れるようになったのも、孤独から目を逸らすための方法のひとつと言えそうだ。倍速視聴も同根のもののように思える。同じ話題で盛り上がることで、関係を結ぶ。そのうち私的な話をできるようになれば儲け物、といったところか。
ムラ社会の解体、核家族化……いや、SNSの普及、情報量の多いエンタメ作品と考察ブーム……? ここを論じるには知識が足りない。保留。
さて、親友と呼ばれることは都合三度あったものの、そのどれもが実感を伴わなかった。嬉しかったのは事実だ。だけれども、何を以って「親友」としているのか、これがわからない。だが、その者らにとって居心地の良い関係を提供できているのなら良いか、と思っていた。
辞書における「親友」の定義は、「小さい時は常に行動を共にし、長じては何事をも打ち明けることの出来る友人」(新明解第五版)となっている。なるほど、彼らとは確かに行動を共にすることが多かった。しかし、それは私の意思ではないのも事実だった。ただ私が意志薄弱なだけだ、と言えばそうかもしれない。
子供にとって、世界というものはとても小さい。学校か、家か。場合によっては習い事での場があったりする。子供にとって、と書いたが、それは大人もあまり変わりはなく、家と職場だけ、ということもあるだろう。
SNSの登場で、地球規模で世界を構築できるようになったが、果たしてどれほどの人がその広さを活用できているだろうか。
そういえば、昨日は七夕だったらしい。
七夕といえば、蝋燭貰いだ。ろうそくいっぽんちょうだいな、と歌いながら他人の家に押しかけ、菓子をねだるという謎のイベントである。
眠い。寝るのがもったいない。