荒波とボトルメール
父がガンダムの映画を観るというので、私と母は近くの喫茶店に入った。ビルの地下一階にあるそれは、落ち着いた雰囲気で居心地が良い。客にマダムが多いので、我々はこの店を「マダムの店」と勝手に呼んでいる。
ガトーショコラをつつきながら、母に、話すことと書くこと、どちらが好きかと問うてみた。母は、「今は話すことかな」と答えた。今は、の意味を訊くと、昔は話すことも書くことも苦手だったし、今は書くことが面倒になったから、と返ってきた。
私は、今でこそ、こうして日記をつけているが、十八になるまで日記など書いたことがなかった。読書感想文はウンウン唸りながら書いたし、作文もあまり得意という気はしない。noteも三日坊主に終わった。
なぜ日記を書き始め、そして続けたか。それは、絵が描けなくなり、脳内に渦巻く言葉たちに溺れそうになった私がなんとか生き延びるための方法だった。日記には、日記にだけは、本当のことが書けた。そう、あの頃の私は、常に嘘をついていて、異常で、それを隠して暮らしていると確信していた。だから、嘘をつかずに済む日記帳の世界に救われていた。日記帳の中でのみ、私は真実の私で在れた。
私にとっての日記は、荒れ狂う思考の波にのまれて海へと投げ出される前に、生きた証を残すためのボトルメールだった。その瓶の中には、苦悩と不安と自己嫌悪が詰まっている。
生きている以上、過去のことはだんだんと忘れていく。だから、放っておけば、あの頃の記憶もいつかは薄れてどこかへと消えてゆくことだろう。それでも、今の私の足元に届いたボトルメールが、あの頃の痛みを思い出させてくれる。あのことは忘れてはならない。もう二度と同じ道を辿らないように。溺れそうになっている誰かを見つけて、浮き輪を投げてあげられるように。