2月16日
母にノンバイナリーであることをカミングアウトした。
話すか話さないかでずっともだもだしているくらいなら話してしまえ、という判断である。
LGBTQ+から始めて、トランスジェンダーを経由してジェンダーの話をした。男女はグラデーションだけれども、ノンバイナリーは違ったところにあると。それを受けて、母は「妖精だと思えばいいんだ」と言った。やっぱり私はこの家庭で育った存在だし、私は妖精なんだな、と思った。なんだか少し嬉しかった。
そして、私はノンバイナリーを名乗るのがしっくりくる、と話した。母はそれをフラットに受け入れてくれた。過剰に心配することもなく、遠ざけることもなく、何か問題があったら言ってね、と。それがありがたかった。これからは我慢する必要はない。
私と母との関係は、おそらく死ぬまで続くだろうし、それを嫌だとは思わない。そんな中で我慢を強いられるのは真っ平御免だ。だから話せてよかったと思う。
ノンバイナリーがいまいちピンと来ていない様子だった母に、分かりやすく言えば性別:雪原であると説明した。
いつかは男女二元論を脱して、それぞれそのひと自身がジェンダーそのものである、というふうになるんじゃないかと私は思う。
この日記は、カミングアウトを推奨するものではない。ただ、こういう事例があったという、それだけの話である。
2月21日
父のためのパンを買うために、街まで出た。冬はバスに乗らないとスーパーのパン屋にすら辿り着けない。我が家は辺境の地にある。
揺れるたびにぎしぎしと音を立てるバスに揺られる。乗客は全部で三名。採算が取れないからと数ヶ月前に一本減らされたのが納得いく。
吊り広告に目をやる。「バーサーロペットジャパン」という大会らしきものの広告があった。なんか強そうだな、と思った。バーサーの部分に引っ張られているだけだろう。
ふと正面を見ると、ガチャピンのようなマスコットのキーホルダーが手すりにぶら下がっていた。この落とし物は前回見たことがある。案外、同じ車両に乗る確率は高いらしい。
ショッピングモール特有の椅子と机が整然と並んだ、しかしどこかごちゃごちゃした雰囲気のなかでパンを食べた。
十二時の終バス(早すぎる)に乗り、帰宅。
TLが嫌いなものの話で盛り上がっていたので、興味深く読んだ。
私は何か/誰かを嫌うことがほとんどない。嫌いになる前に、違和感の理由を探ることに意識が向いて、強い感情にならないからかもしれない。
そもそも、私は常日頃から強い感情を抱くことはほとんどない。怒りよりも先に、静かな悲しみが来てしまう。喜びよりも前に、深い充足感が来る。突然何かが起こってびっくりすることはあれど、意外なことが起こっても驚くこともない。それは子供の頃からそうだったように思う。
ただ、そう、不安だけは荒波のように私をもみくちゃにしていた。
2月25日
昨日は髪を切った。初めてのヘアドネーションである。
四十五センチ切った。それはもう、バッサリである。元が腰まであったので、それでも肩までは残った。そこからさらに切って、ボブカットにしてもらった。
最初は毛先を巻かれたからか、眼鏡がピンクだからか、阿佐ヶ谷姉妹のそっくりさんになっていたが、今日はちゃんと自分になっていた。
しかし初めてボブカットの自分を見た訳だが、これがめちゃくちゃかわいい。びっくりだ。自分にはロングヘアしか似合わないと思っていたが、全然そんなことはなかった。
母に「お姉さんみたい」と言われて、もやっとした。
男女どちらに見えるかということを「パス度」と言うらしい。たぶん、そういう尺度で見られるのが、ジャッジされるのが嫌だったのだ。
カミングアウトしたこともあり、嫌だったよ、と言えば、それ以外に思いつかなかったと返されたので、そのときは「素敵だね」と言ってくれれば嬉しい、と答えておいた。これはタイムラインで見かけた言葉を借りている。
その後、「ボーイッシュに見える」と言われたが、それはとくになんとも思わなかった。あくまで傾向の話だし、別にいいか、と思った。
(以下28日追記)
ボーイッシュの定義が気になったので広辞苑を引くと、以下のように説明されている。
女性の身なり・物腰などが、男の子のようであるさま。言われてみれば、そりゃあ男に対して男みたいだ、とは言わないだろう。
だが、とも思う。普段やわらかい服装や、それこそフェミニンな服装をしている子が、男の子っぽい服装をしていたら、やはりボーイッシュな気もする。
いや、「(性別が)どちららしいか」という見方は、やはりパス度に基づいたジャッジのようにも思える。むずかしい。
母に抗議するかは別として、少なくとも自分は、誰かに対して見た目に言及するなら、「今日の格好、いいね」と言うだろうし、それが最適な気もする。いいね、には性差などないし、言いやすいからだ。