去る者へ贈る花束

 どこであろうと、常に、やってくる者があれば去る者もある。
 ネット上では、鍵アカウントに籠らない限り、その奔流の中に身を置くことになる。それは刺激的だ。長く居れば感覚が鈍るかというと、そんなことはない。常に、誰かが来れば喜ぶし、誰かが去ればさみしい。

 私はとある場所から一度去っている。
 長くて七年ほど続いた関係たちだった。
 そのうちのひとりと、このサイトを巡って問題が起こり、その者と仲違いをしたあとも私は暫くツイッターに居たし日記も書いていた。
 だが、反応の来ない中で日記を書き続けるのがつらくなった。そして元親友の友達に監視されていることも分かり、息苦しくなった。なので、ツイッターと日記を辞めると決意した。
 別れの挨拶は書き残した。
 だが、それに対して、友だと思っていた者たちから反応はなかった。リプをくれたのはたったひとりだった。(たったひとりのあなた、ありがとう!)
 私は知らないうちに孤立していたらしい。その事実が、余計に悲しかった。
 仲違いをした理由は分かっている。私の行動に問題があったからだ。批判されたことに対して、私は過剰に怯えて傷ついた。もう少し余裕を持って受け止められればまた違った結末もあっただろう。だが、そのときの私に余裕などなかった。

 今回のこの状況は、なんだか昔の自分を見ているような気分になる。
 ただひとつ違うのは、あなたはみんなに見守られている、ということだ。監視ではない。だからちゃんと見える場所に言葉がやってくる。そして悲しむ者が居る。私だってそうだ。
 私から言いたいのは、一度批判されたら全てが終わってしまう訳ではない、ということだ。もちろん、去る決断をしたのは、さまざまな事情が重なってのことだとは思う。それでも、それは謝罪の方法としてはあまり適していないようにも思う。
 謝罪は「ごめんなさい」だけではなく、その後の行動にこそかかっているだろう。どれだけ誠実に行動できるか。そこが問題なのだ。
 だからと言って、私には去る者を止める権利はない。ひとは常に自由であるべきだ。

 だが、これだけは言わせてほしい。
 あなたは悪いひとという訳ではない。ただ少し方法が間違っていただけで、それはきっと正すことができる。

 きっと、今日のように去っていく者は、いつか、この後も出てくるだろう。そんな去っていく者たちみんなに言いたいことがある。
 もしまたここに帰ってきたら、そのときはハグで歓迎するからね。それまでは、ばいばい。