定期的の困難さ、メイクのこと

 昨日は夕飯を食べてから横になって、気がついたら次の日の九時頃になっていた。
 昼はパンケーキを食べた。三枚あったのでとても腹が膨れた。気前のいい店だ。
 午後は食料の買い出し。いつもザ・ビックと生協に行く。

 親が『不適切にもほどがある!』を見ている。
 宮藤官九郎の書く阿部サダヲが、たぶんかなり好きだ。まーちゃん(田畑政治)のことが大好きだし。そんなことを言っていたら『いだてん』をもう一度見たくなってきた。私が唯一真剣に見た大河ドラマだ。
 『鎌倉殿の13人』も面白かったが、自分ひとりだとテレビを定期的に見る習慣がないため、あまり見れなかった。もったいないことをした。
 私は、決まった時間にテレビなりラジオなりをつけて視聴や聴取をするという行為ができない。大概忘れてしまうし、覚えていても面倒になって視聴に至れない。録画は、えいやとやる気を出さないとやはり見れない。毎日なら忘れないし、惰性で動けるのだが。なにか上手い方法はないものか。

 最近はノーメイクで外に出ている。AFAB(assigned female at birth)なので、なんとなくしなければならないと思ってメイクをしていたが、別に塗ったり描いたりしなくても私って十分かわいいんだよね、と思ったのでそうしている。
 最近は男性もメイクをしてもおかしいとは思われなくなってきている。それは大変喜ばしいことだ。その逆で、メイクをしない女性も許容されて良いのではないか、と思うのだ。もちろん、メイクをして着飾るひとのことを否定したいわけではない。ただ許されたい。それだけだ。
 しかしこれは、顔にコンプレックスを抱いていないからこそできることで、ある種の特権性なのかもしれない、とも思う。ルッキズムを内面化せずに今まで生きてこれる環境に身を置けたことは、とても幸運なことだ。
 美醜の基準など、時代によって移り変わる。現代日本の「美」の基準は西洋的だと感じる。それは明治時代から続く、西洋の文化こそ良いものだとする価値観なのではないだろうか。だからと言って「日本人らしさ」とすると多民族国家としての日本を否定することになる。求めるべきは「その人らしさ」だ。
 なにも、生まれついての姿を愛しなさいとは言わない。男性として生まれたけれども、女性的な姿になりたい人はそのようにメイクしたり整形すればいい。逆もまた然り。ノンバイナリー的になりたければ、やはりそうすればいい。
 私はメイクをしないことで自分らしさを表現したいと思っている。それだけだ。