磨りガラスには、神恵内警備と書かれている。なぜ警備会社に案内されたんだかよく分からないが、他に行くあてもないのだから、とりあえず入ってしまおう。
ドアノブに手を伸ばす。
手が震えている。
一度深呼吸をして、そっとドアを開いた。
「お、君が例の新人だな? 歓迎しよう! まあこっちに来たまえ」
な、なんだこの人は。
声の大きいその人は、くるりと身を翻して、長い黒髪を靡かせながらずんずん歩いていき、衝立の向こうへと消えた。
私が呆れて立ち尽くしていると、何をしているんだね! と叫んでくるので、とりあえず私も向こうに行くことにした。
そこには、ローテーブルを挟んで、長いソファーと一人がけのソファー二つが向かい合っている、典型的な応接間があった、
「まあ座りなさい」
ソファーに身を沈めると、途端に体の疲れがどっと押し寄せてきた。
「疲れているだろうが、とりあえず聞きたまえ。突然だが、君は今日からここに所属することになる。なに、すぐに働けとは言わないさ。第二の我が家だと思って寛いでいいぞ。それに伴って、君には部屋を貸与するから、衣食住は安心しなさい。もちろん家具付きだ。それから、後で君にはテストを受けてもらう。簡単だから心配することはない。君には才能がありそうな予感がするしね。あとは、そうだ、なぜここに来ることになったかの説明は、後から来る奴が教えてくれるから、それまで待っていてほしい。さて、何か質問はあるかね」
いっぺんに捲し立てられて、私は混乱した。ただひとつ分かったのは、この人はなんかやばい。それだけだ。
「降谷さん、ですよね。すみません、うちの問題児が。これからゆっくりご説明しますので」
私が呆然としていると、まともそうな人がお茶を持ってやってきた。
「岩見サン、敬語を使ったらどうですか、と再三再四言ってますよね」
「それは無理な相談だな、長門君よ」
長門と呼ばれたその人は、眉間を揉んだ後、態度も大きい岩見なる人をその場から摘み出した。
「内容は先程の通りなのですが、あの説明で頭に入りましたか?」
「ええと、とりあえず部屋を貸しもらえるらしいってところは覚えてます」
「とりあえず、それだけ理解してもらえれば十分です。後のことはゆっくり考えていきましょう」
そう言って長門は微笑んだ。
山城と別れて以来、ようやく安心できそうな人に出会えて思わず目が潤んでしまった。
出してもらった緑茶をずず、と啜ると、更に安心感が湧いてきた。
突然ドアの開く音がして、その後、よく来たねと例の声も態度も大きい人が出迎える声が聞こえる。それから足音がこちらに近づいてきた。衝立の向こうから二人が姿を見せる。
「紹介しよう、星井君だ」
星井はこちらにお辞儀をした後、長門の隣に腰掛けた。
長身でパリッとしたスーツを着こなしている。それを言うなら、長門もまたピシッとスーツを着こなしていて、少し緊張する。
「はじめまして。星井アキナと申します。国家直属の観測士です」
星井がこちらに名刺を差し出す。
受け取ると、確かに観測士と書かれていた。
「あの、観測士って一体なんなんですか」
「月の裏の天素の動きを観測して……。これじゃあ伝わらないか。簡潔に言いますと、あなたの居た世界の過去を観測して、こちらの世界の未来予測に置き換える、というものです。まあ、詳しい話はまた今度にしましょう。それより今は、あなたの話を」
安心したら、つい好奇心が勝ってしまった。本題はそちらだ。
星見はひとつ咳払いをしたあと、話を続ける。
「まず先に結論から述べますと、あなたがあちら側に戻るのは、今のところ難しいです。というのも、正規のルートではないから、というのが理由です。しかし、不可能ではありません」
「そうだとも! 我々の辞書に、不可能の三文字はないのだよ!」
「岩見サン、あなたは帰ってください。すみません星井さん、余計な茶々が入ってしまって」
「いや、慣れているから構わないよ」
星井がしっし、と手を振ると、岩見はしょぼくれながら去っていった。
なんだかコントを見ているようで少し可笑しい。
「それでですね、降谷さん。既にお聞きになったかとは思いますが、衣食住はこちらが責任を持って全力でサポートさせていただきます。何せこれは国家レベルの事態ですから」
「そんな大事なんですか」
「ええ。これは間違いなく〝魔女〟の仕業です。魔女による被害は国が責任を持って対処します。そして、魔女の行いは国が裁かねばなりません」
「裁くって、どういう……」
火炙りの刑だったりして。いやいや、まさか。
「心配は無用です。全ての知的生命体は生存権を等しく持っています。ですから、禁固刑を課すことはあっても、殺すような真似はしません」
「例えその人が殺人犯だったとしても、ですか」
「ええ。ひとつの例外もありません。それが平等ということであり、権利ということです」
それはつまり、この国には死刑が存在しないということだ。
似ているけれども、少しずつ違う世界に、何か根本的なズレを感じる。それは、魔法があるとか、死刑がないとか、そういう表面的なことではなく、もっと奥深くから——。
「とにかく、私はこの世界でも問題なく生きていけるってことなんですね」
「そういうことになります。何かご質問はありますか」
「そうだ、国家直属ってどういうことですか」
「私達が予測した未来を政府に伝えて施策に反映していただいたり、気象庁から警告を出していただいたり、そんなところです」
またしても好奇心が疼いてしまった。しかし、なんだか陰陽師みたいだ。魔法使いも陰陽師も似たようなものなのかもしれないな。よく分からないけれども。
「待ってください。それだと、貴方達の意見でこの国の未来が左右されることになりませんか? それじゃあ民主主義とは言えないのでは」
「その疑問は尤もです。ですが、あくまでも災害級事態を報告するのみに留めていますし、政策については、適宜、国民投票が行われていますので」
なんとも先進的な世界だ。これは意識のアップデートをしていかないと、この世界では取り残されるかもしれない。
「星井さん、そろそろ時間じゃないですか」
「うん? 本当だ。それでは、今日のところはこれで失礼します」
星井を見送ったあと、振り返れば、満面の笑みをたたえた岩見がこちらを見ていた。
「つまらない話は終わったみたいだな。さあ、さっそくテストだ! 天法使い資格試験、とでも言おうかな」
長門は岩見を睨みつける。
「岩見さん、口から出まかせもいい加減にしてくださいよ。それに、使えなくても問題ないでしょう。どうしますか、降谷さん」
「つ、使えるなら使ってみたいです」
この機を逃したらずっと使えないままのような気がして、私は前のめりになって答えた。
「うむ、そう来なくては。では、山城のところにでも行こうじゃないか」
「山城さんのところですか」
「あそこなら邪魔なものはないからな」
また街中に戻るのかと思っていたが、数分歩いたところにある普通の一軒家に着いた。
岩見が肩掛け鞄から鍵束を取り出す。一体いくつ鍵があるんだろうか。その鍵の群れの中から、銀にエメラルドグリーンの装飾が施されたものを選び取り、鍵穴に差し込む。
するりと回り、かちゃり、と音が鳴る。