深淵潭潭として
たまに生の意味を考える。なぜ人は生きているのか。
或る人は云った。誰かを愛するためだと。
或る人は云った。社会のために生きていると。
或る人は云った。生きたいから生きているのだと。
しかし、いくら考えたとしても、やはり生きていることに意味などないという結論に落ち着く。
この世界は私の見ている夢かもしれない。
それでも。それでも、この感情だけは本物だと思いたいと、そんな浅はかな思いを抱く瞬間がある。
我思う、故に我あり。少なくとも、私がここに存在していることだけは慥かだ。私はそれに縋るしかない。それでも、その縋る先すら揺らぐことがある。自分でも何を思い、何を見て、何を考えているのか解らなくなることがある。私は一体誰だろう。そんな考えが頭をよぎる。
水面(みなも)を仰ぎ見る。なんと遠いことだろうか。呼吸のできない私は、肺が水で満たされていく。
私は抵抗することなく、水底へと沈んでいく。
否、水底など無いかも知れない。
落ちていく。
堕ちていく。
私はいつまでも堕ちていくのだろう。
このまま光の届かぬ場所まで行って、輪郭すらあやふやになって。それはきっと心地良いだろう。私のような胡乱な精神を持ち合わせている人間は、輪郭があやふやなくらいが丁度いい。
何も視えない。
何も感じない。
水圧で動けない。
なんて素晴らしいことだろう。
しかしやがて目が慣れてくる。
──深海魚が泳いでいる。
深海魚は、急に陸に揚げれば目玉やら内臓やらが飛び出る。きっと此岸へ引っ張り戻された私も、そのように醜悪で無様な姿を晒し続けているに違いなかった。しかし、彼岸に行ったとて、私はやはりどうしようもなく私に違いない。実際、今だって、私は私として思考している。私は私以外になど成れない。私という肉体の檻に閉じ込められている。その檻が、私という精神を定義している。
時折、魚と目が合う。
否、彼らは視力が殆ど無いから、それは気のせいなのだろうが。それでも、据わりの悪い気持ちになる。私を見ないでくれ。醜い私を見ないでくれ。誰にも見られなければ、存在していないのと同じことだから。透明になれるから。
魚たちが私を啄む。
不思議と痛みはない。
このまま私は散り散りになり、消化され、跡形もなく消えていくことだろう。
──それは、幸せなことのように思えた。
気がつけば、私は文机に突っ伏して眠っていた。原稿用紙に涎が染みを作っている。ぐしゃぐしゃと丸め、埖箱の方向に投げ捨てる。どうせ数行しか書いていない。
頭を擡げると、急に吐き気に襲われた。
微妙な眠りから覚めたようで、頭の中は靄がかっている。
蝉がけたたましく鳴いている。耳を塞いでも、それは容赦なく鼓膜を震わせる。蝉は地中から出て一週間程で死ぬと云う。本当かどうかは知らない。その一週間を全力で駆け抜けようと云わんばかりの鳴き声は、怠惰な私には後ろめたい気持ちしか抱かせない。特段、蝉が嫌いと云う訳ではない。ただ、爽やかさを演出する舞台装置として機能している瞬間は、実に鬱陶しいと感じる。それは、耳の周辺を飛ぶ蠅なんかよりも余程。蠅は叩いてしまえば死ぬ。けれど、蝉は叩けない。叩ききれない。だから厭なのだ。
窓の外に視線を向ければ、世界は光に満ちていた。
外にはどこにも居場所がない。
だからこうして、部屋の中に閉じこもり、怠惰に過ごしている。
そう云えば、いつから外に出ていないだろう。一週間は外の景色を見ていないように思う。
緩慢な動きで立ち上がると、体がぐらりと傾き、二、三歩よろめいた。
体が汗でべとべとしていて気持ち悪い。
居間に出ると、家の中がやけにがらんとして見えた。妻が居ないせいだろうか。きっと買い物にでも行っているのだろう。
洗面台へと向かう。
顔を洗い、髭をあたる。
鏡の中の自分を見つめる。
冴えない顔だ。活力がない。
私は妻に、京極堂に、その他たくさんの人間に、迷惑をかけてばかりだ。のみならず、そのことに報いることなく、こうして今日ものうのうと生きている。
──私は厭な人間だ。
そう思った瞬間、再び吐き気が戻ってきた。今度は先程よりも強烈だった。喉の辺りまで胃液が込み上げてきて、涙が出た。私は胃の中身の殆どを吐き出した。
このところ、私は夜中に何度も目を覚ます癖がついていた。殆どの場合は浅い眠りの中で目覚めるだけなのだが、時折、本格的な悪夢に襲われることがあった。それも妙に長ったらしい奇妙な夢で、目が覚めた後も私はしばらく動悸が治まらなかった。さっきもまた、夢を見ていた気がする。
それが何だったのか思い出そうとした時、ふいに電話のベルが鳴り響いて我に返った。私はふらつきながら、廊下に出て受話器を手にした。
「──もしもし、関口ですが」
「もしもし、僕だ」
相手は京極堂だった。
「何の用だい」
「君が以前、欲しいと云っていた本が入ってきてね、気が向いたら買いに来るといい」
「わかったよ。ありがとう」
がちゃりと音を立てて受話器を置く。
とりあえず、体をさっぱりさせたかった。
銭湯に行くために、風呂桶とタオル、石鹸を手にして外に出た。
眩しさに目を細める。
じりじりと陽光に身を焼かれる。
私は早くも外に出たことを後悔し始めた。夕方まで家でじっとしていた方がまだましだったかもしれない。だが、じっとしていられるような気分ではないのも慥かだった。
額に汗が流れ、前髪が張り付く。
私は乱暴に手の甲で汗を拭った。
道すがら、子供が遊びまわる声が聞こえてきた。けんけんぱ、という掛け声は郷愁を誘う。
──君が生きている理由は?
そんなものはない。
──君が生きている価値は?
そんなものもない。
川に沿って進む。
土手には草が繁茂しており、川そのものは見えそうになかった。途中で辛気臭い名前の橋を渡り、そのまま真っ直ぐ進む。暫くすれば、目当ての銭湯に到着した。
番頭に料金を渡して脱衣所に向かう。
思ったよりも繁盛しており、私は尻込みした。だが金を払ってしまった手前、帰る訳にもいかず、どうにも落ち着かない気持ちで風呂を済ませた。
銭湯を出て、その足でだらだらと続く歩きにくい坂を登りきれば、見慣れた古本屋が目に入る。表には骨休めの木札がかかっており、私は母屋へと回った。
「お邪魔するよ」
家主の代わりに猫がにゃあと返事をした。
座敷に着いて、私は勝手に座布団を定位置に置いて座り込む。
「人の家に上がり込んで挨拶もなしかい」
家主は本から顔を上げずに小言を云う。
「ちゃんと玄関で挨拶したさ」
「僕の耳には届かなかったね。もう少し声を張ったらどうだい」
「悪かったね、通りの悪い声で」
座卓の上には、件の本が置いてあった。
私はそれを手前に引き摺る。
「いくらだい」
「それなら十円だな」
古書肆の云う通りに、私は十円を座卓に置いた。
蝉の声がする。
先ほどよりもさらに煩く感じられた。
私は無性に何かを話したくなって、口を開いた。
「けんけんぱと掛け声をかける遊びがあるだろう。あれにはなにか起源があるのかい」
私はもう少し違う話をするつもりだった気がするのだが、口を突いて出たのはそんなどうでもいいことだった。
「あれはホップスコッチといってだな、原型となる遊びはローマ帝国の時代まで遡るといわれているね。海外では日本とはルールが若干異なっていて、最初に石やコインなどの目印を一番のマスに投げ入れて始まりまるんだな。この目印はしばしばラッキーと呼ばれる。目印を投げるときは、升目から飛び出したり滑ったりしてはいけない。普通は小さい平らな石、コインなどが使用されるね。そして奥の升まで行ったら回れ右をして逆方向にまた飛んでいくんだ。そして最後に目印を拾うことができればその人が勝ちとなる」
「ただ升目の中を飛ぶだけじゃあないんだな。そういえば、子どもの遊びといえば、かごめかごめや、はないちもんめもあるよな。はないちもんめなんか、人身売買に聞こえるけれども、どうなんだろうか」
京極堂は本を置いて話し始める。
「まずはかごめかごめの話でもしようか。呼び名は細取、子捕り、子をとろ子とろ、とも云う。柳田國男は、目隠し鬼などと同じく大人の宗教的儀礼を子供が真似たものと述べているね。記録としては文政三年に編纂された『竹堂随筆』、天保十五年に刊行された『幼稚遊昔雛形』に記されている。歌舞伎の演目としては、文化十年に江戸市村座で初演された『戻橋背御摂』だな。浄瑠璃では文政六年に市村座で初演された『月花茲友鳥』だ。これは鶴屋南北の作で、芝居に取り入れた子供の遊び唄として残っているね。歌詞の内容には俗説が山ほどあってだな、まあこれは省略しよう」
──鬼さんこちら、手の鳴る方へ
──あはは、あはは
「次にはないちもんめだが、これはさっきの子とろ子とろから派生した遊びといわれているね。君の云う通り、花は若い女の隠語で一人が一匁を基本とする値段で行われた人買いとする説や、鬼、つまり異人に力づくで攫われた中世の社会背景に起源があるともされているな」
私は絶対に捕まえることができない。私は絶対に選ばれない。私は無様にも地面に倒れ伏して、そして嘲笑されるのだ。逃げ出してしまいたい。けれどきっと、それは許されないのだ。私はこの深海から出ることはできない。私には鰓えらがないのに、なぜこんなところにいるのだろうか。息苦しい。溺れてしまう。呼吸もままならない。
「──、関口君」
「す、すまない。ぼうっとしていたみたいだ」
この座敷は涼しいと云うのに、私の額には汗が滲んでいた。
暫く沈黙が訪れる。
「なあ、京極堂。なぜ僕は生きているんだろうな」
私は本来云いたかったことを口にした。
「それは僕じゃなくて大河内あたりに尋くといいよ」
「そういうことじゃあないんだ」
「なら何だ」
「僕が死ねば、君は楽になるかい」
仏頂面だった京極堂の顔は、一段と険しくなった。
「──馬鹿も休み休み云え。いつ僕が君の存在が苦だと云った。そんな覚えはない」
そうだ。京極堂は一言もそんなことは云っていない。それでも、
「それでも、僕は君に迷惑ばかりかけているだろう」
「慥かに君が居ることで面倒な事態に陥ったことは数知れないがね、それとこれとは話が違う。人間は社会的な生き物だ。群れなければ生きてはいけない。そうして群れていれば、必ず迷惑をかけるような事態は発生する」
京極堂はそこで言葉を切ったあと、そうだなあと云って顎をさすった。
「関口、君と僕とでは違うものを見ているだろう。そして語ることも違う」
「それは当たり前だろう」
「まあ聞け。当たり前のことこそ大切なのさ。差異があるからこそ、人は誰しも存在意義がある」
「それでも、その差異があるからこそ優劣がつくだろう」
「本来は優劣なんてものはないさ。誰かが勝手に考えた尺度でしかない。本来はそこに違いだけが横たわっているだけだ。君の視点は君にしかないんだよ、関口君」
よく解らない。だからなんだと云うのだろうか。自分を超えるものが現れてしまえばそれまでではないか。
「自分より優れた人間がいるならば、僕には価値なんてないだろう」
「仮に君より優れた人間がいたとしても、そいつは僕と知り合うことはないだろうね。それが、君が唯一無二である所以だ」
「例え唯一無二だったとしても、そこに価値はあるのかい」
「あるさ。君が話すことを、他の誰かが全く同じように云えると思うかい。無理だろう。そのたった一つの視座から語ることこそが、ときに誰かを助けるのさ」
「僕が誰かを助ける、だって?」
「ああ。ただ寄り添うだけでいい。それだけで人というものは助けられるものさ」
「君はいつだったか、人間には人間を救うことなど出来ない、と云っていなかったかい」
「救うと助けるは別物だよ。慥かに語義が重なる部分は多いがね、人間を救うのは神や仏だけだ。対して、人は助け合って生きている。同時に、迷惑をかけ合ってもいる。これは事実だ」
普段は知人と云って憚らないのに、こういうときは慰めてくれる。そんな親切な男に、私は身を預けざるを得ない。その言葉はひどく魅力的なのだ。この深海の中で、京極堂だけが私に空気をくれるのだ。
私は急に、猛烈に後悔し始めた。云ってはならないことを云ってしまった気がする。
「──変なことを云ったね。忘れてくれ」
「別にいいさ。君が妙なことを言い始めるのは今に始まった話じゃない」
そう云って京極堂は立ち上がった。
頭がぼんやりする。
視界がぐらりと揺れる。
蝉がけたたましく鳴いている。
──そこで意識が途切れた。
ちりん、ちりん。
風鈴の音だ。
背後から、猫が喉を鳴らす音が聞こえる。
そよ風が頬を撫でる。
重い体を起こすと、額から濡れた手拭いが落ちた。
「──京極堂」
私の掠れた声が、自分の耳に入ってくる。
京極堂はこちらを一瞥したあと、本に視線を戻した。
「関口君、水分くらいは摂っておきたまえ」
座卓の上には麦茶の入った洋杯が置いてあった。
私は洋杯を手に取り、口をつける。
口の中がさっぱりした。
「僕は眠っていたのか」
「そうだな、正確に云うなら倒れていたよ。軽い日射病だね」
迷惑、という単語を出しかけて、やめた。
「──ありがとう」
「いいさ、これくらい」
京極堂の声はあくまでそっけない。
それでも、そこに優しさがあることを、私は知っている。