傷ごと抱きしめて
爽やかな風が私の前髪を揺らす。
コラムの原稿を書くべく文机に向かっているが、視線は窓の外に向いていた。夏の始まりを感じさせる心地良い風だ。
もこもこと入道雲が背を伸ばしている。あの雲のようにふわふわと空を浮かんでいられたら、きっと気楽だろう。夏の日は長く、夕方だというのにまだ空は水色で染まっていた。
ここのところ、研究室と自室とを行ったり来たりする日日で、それ以外の景色に関する記憶はほとんど無いに等しかった。それを勿体ないと思う気持ちがないこともないが、来年も似たような景色を見られるのだからいいだろう、などと怠惰な思考に呑まれ、今日も空ばかり見ている。
文筆家を目指す者としてそれはどうなのだろうか、という気持ちが湧くものの、そんな薄弱は思いはいつもの怠慢さにかき消されてどこかへと飛んでいってしまう。
ふと空腹感を覚えて食糧庫を見るが、すっからかんで乾麺の類すら見当たらなかった。わざわざ買いに行くためだけに外に出るのも億劫だし、今日はこのまま寝て飢えを凌ごうか。
そんなことを考えていると、僕だ、という声と共に戸を叩く音がした。
中禅寺はちょくちょく私の様子を見に来る。そして食糧を差し入れたり、掃除をしたりして帰っていくのだ。もう大人なのだから大丈夫だと固辞しても、君は放っておくと野垂れ死んでしまいそうだから目が離せないのだ、と毎回やってくるのだ。せっかく新婚なのだから、妻と共に過ごせばいいだろうに。
「相変わらず君の部屋は汚いな」
中禅寺はずかずかと入ってきて小言を云う。
「勝手に入ってきて第一声がそれかい」
「君が出迎えないのが悪いんだろうが。それで、昼飯は──」
視線が台所へと向かう。当然、そこには何もない。
「──食べていないな。空腹じゃあ書けるものも書けないだろうに。金が無いというわけでもないんだろう? 雪絵さんに愛想を尽かされても知らないぜ。これ以上痩せちゃあみずぼらしくていけない」
「うう、解ったよ。ちゃんと食べるからそれ以上云うのはよしてくれ」
「仕様がない、今日のところは奢ってやろう。明日からはしっかりしたまえよ」
私は中禅寺に連れられて近くの定食屋にやってきた。
「僕はかつ丼定食にするよ。君は唐揚げ定食にでもしたまえ」
相変わらず勝手に私の分まで決めた中禅寺は、店員を呼んで注文をした。
中禅寺は結婚してから少し太った感があるし、健啖家になった、とまではいわないまでも食べる量が増えた気がする。
スーツ姿の友人を眺める。制服も似合っていたが、スーツもまた似合っている。私なんかがそういった固い服を着ると、どうしても着られているような感じになってしまうので少し羨ましかった。
「研究の方はどうなんだい」
湯呑を手にした中禅寺がそう尋ねる。
「順調、とはまではいかないが、概ね上手くやっているよ。そうだ、ひとり話せる人ができたんだ。彼は大森といってね、音楽の趣味が合うんだ。彼はレコードもいくつか持っていて、今度聴かせてもらう約束をしたんだ」
「そうかい。それはなによりだよ」
自分から聞いておきながら、中禅寺は興味がなさそうに茶を飲んだ。
「それより中禅寺、君の方はどうなんだい。そんな顔つきなんだ、生徒に怖がられているんじゃないかい」
「何を云う。学び舎は教師と生徒が仲良くなるための場所ではないのだから、怖がろうが好こうがそれは生徒の勝手だろう。ああ、最近はやけに僕に絡んでくる生徒がいるな。せっかく静かな部屋を見つけたというのに、ほとほと困ったものだよ」
「へえ、珍しいこともあるもんだな」
「珍しいとは失敬な、これでも僕は顔が広いほうなんだぜ」
それもそうだ。中禅寺は学生時代からやけに顔が広く、連れまわされる度にいろいろな人種と付き合う羽目になったのだ。
そんな身の上話をしていると、店員のお待ちどおさまという声と共に定食が机に置かれる。
唐揚げは、外はかりっと揚げられて、中の肉は柔らかく、とても美味しかった。近所にこんなによい定食屋があるとは知らなかった。
私が黙黙と食べていると、中禅寺がしかし、と呟いた。
「君の髪はずいぶんと伸びたね。ついでだ、このあと床屋にでも行こうか」
「い、いや、いいよ。床屋は苦手なんだ」
「そうは云っても邪魔だろうに」
「むしろ落ち着くくらいだよ」
「ならば単刀直入に云おう。見ているこっちが暑苦しいから切ってきたまえ」
そう強引に結んで中禅寺は残っていた味噌汁を飲み干した。
私はまだキャベツも残っていたので、慌ててかき込んだら少し噎せてしまった。
会計を済ませ、大通りへと出る。
「この時間は過ごしやすくていいね」
汗っかきの私は、日中に行動しようものなら汗が噴き出てきて何度も拭くことになる。
「まだ夏は始まったばかりだろう。こんな時期に音をあげちゃあ先が思いやられるぜ」
「それはそうなんだが」
言い返そうとしたとき、正面からお下げ髪の少女が走ってきて、私にぶつかった。
その少女は、白いブラウスを着て、暗い色のスカアトを履いていた。そしてそこから二本の白い脛が覗いている。
──そこには真っ赤な赤い血が。
──手には手紙の入った封筒。
世界の音という音が遠のく。
──うふふ。
少女の笑い声だけが耳元でこだまする。
「──君、関口君」
「ち、血が」
「血? 彼女は出血などしていなかったぞ」
「あ、す、すまない。少しぼうっとしていたみたいだ」
それきり私は失語してしまい、その場に立ち竦んでしまった。
「床屋に行くのはまた今度にしよう」
そう云って中禅寺は私の下宿先まで送ってくれた。
あの記憶はなんだったのだろうか。遠い昔のことのように、霞がかって上手く思い出せない。記憶をたどろうとすると、躰が拒絶するように悪寒が全身を支配した。
なんだかひどく疲れてしまい、私は蒲団に倒れ込んだ。
あれから数日経ったものの、食事は碌に喉を通らず、日に日に食が細っていった。研究にも身が入らず、見かねた教授が少し休むようにと提言してくれたほどだ。
無感動に日日が過ぎ去っていく。
電車から降りるとき、他の乗客と手がぶつかった。
ああ、忌まわしい。
まるであの頃に戻ったようだ。なぜあのとき私がひどい鬱を発露したのかは思い出せないが、しかしなにかきっかけがあったような気がする。上手く思い出せないことも、全てが億劫なことも、何もかもが私を不安にさせた。
「関口君、僕だ」
いつものように中禅寺が訪ねてきた。しかし、私は蒲団から出る気力も返事をする気力もなく、居留守のような恰好になった。
開けるよ、という声と共に戸が開く音がする。
「関口、暫く僕の家で過ごさないか」
「それはまたどういう風の吹き回しだい。それに新婚生活を邪魔するような趣味はないよ」
「千鶴子は実家に戻っているから問題はないさ」
それだけ云って勝手にいくつかの着替えを風呂敷に包み、私を急かした。
仕方がなく中禅寺を追いかけて部屋を後にする。
久しぶりに訪れた中禅寺の家は、相変わらず立派な日本家屋である。
中禅寺が茹でた蕎麦を啜り、中禅寺が沸かした風呂に入り、中禅寺が敷いた蒲団に寝転がる。まるで世話をされているようだ。いや、実際そうなのだろう。
蒲団はなぜか中禅寺の分も隣に敷かれていた。
「夫婦じゃあるまいし、なぜ隣同士なんだい。君の部屋があるだろうに」
「蚊帳をふたつ吊るすのが面倒なだけだ」
そっけなくそう告げ、中禅寺は私とは逆方向を向いて寝転がってしまった。
私も寝るべく瞼を閉じる。
女は私を抱きしめる。
私も女を抱きしめ返さなければならないのに、躰が上手く動かない。ああ、そうか、私は眠っているから動けないのだ。
女は愛おしそうに私の頬を撫でる。
しかし私は恐怖を覚えた。
それはきっと喜ばしいことのはずなのに。
部屋には薬品の匂いが充満している。おそらくここは病院だ。ならば、私はきっと看病されているのだろう。
一体どんな病を患っていただろうか。なぜだか思い出せなかった。
しかし、あらゆるところに痛みが走っているから、もしかすると大病なのかもしれない。これでは、これでは頼みを叶えることができないではないか!
私は痛む体を無理やり起こして蒲団から這い出る。点滴を無理やり外したせいで血が滲んだ。
ひどく喉が渇いた。台所へ向かおう。そうして水を飲もう。
「関口君、いつもこんな夜更けに起きているのかい」
そうか、私は病人だから寝ていなければならないのか。どうか怒らないでくれ。
「怒ったりなどするものか。ただ、きちんと睡眠はとらないと躰に障る。それに、君は病人ではないよ」
気がつけばそこは病院ではなく、目の前には友人が立っていた。ずいぶんと寝ぼけていたみたいだ。
蒲団に戻って目を閉じるも、結局その晩はうつらうつらとするのみであった。
翌朝、中禅寺の気配で目が覚めた。中禅寺は私の蒲団の隣で静かに和綴じの本を読んでいた。蒲団から這い出て畳み、それから用を足して、座敷に向かう。米と味噌汁、目玉焼き、それから納豆という質素な朝食に出迎えられた。私の朝食とて似たり寄ったりだから文句をつける筋合いはない。目玉焼きがついているだけ良心的といえる。
中禅寺は既に食べ終わった後のようで、さっきと同じように本を読んでいる。
もたもたと朝食を終え、流しに食器を持っていく。あまり頼りきりでいるのも申し訳ないので、洗い物は私がやることにした。
中禅寺が教師を務めている美戸川高校は私の通う研究室と別の方向なのだが、なぜか同じ方向へと足を向けた。意図が掴めぬまま、中禅寺と共に研究室へと向かった。
夕方になり帰路につこうとしたところ、門前に中禅寺の姿があった。
「なんでそこにいるんだい」
「なに、たまたま早く上がれたから散歩ついでに来ただけさ」
早く本調子に戻らなければ。これでは本当に保護者に連れられた子供のようである。
ここ最近は電車に乗ることすら少し緊張していたが、しかし、中禅寺と共にいることで安心することができている自分がいるのも確かだった。
油土塀に囲まれた坂を上る途中、目眩を覚えて私はふらついた。
そんな私を支えるように中禅寺の手が肩に触れる。
脳裏にざらざらとした感覚が走る。
私は思わず中禅寺を突き飛ばした。
「ぁ、う、」
私は再び失語に陥った。
息が上がって視界が狭まる。くらくらする。躰が凍り付いて上手く動けない。
夏だというのに、私の手はひどく冷たくなっていた。
「関口君、歩けるかい」
なんとか頷いて、足をぎこちなく動かす。
普段の倍ほどの時間をかけて、私たちは帰宅した。どうやら今の私は、人に触れるとひどく不安定になってしまうらしかった。このままでは生活に支障をきたしてしまう。
座敷に入るなり、私は口を開いた。
「なあ、中禅寺。こんなことは君にしか頼めない。僕に触れてくれないか」
「しかしな、関口。さっきもあんなに──」
「だからこそ。だからこそだよ」
中禅寺は大きく溜息を吐いた。
「──荒療治になるぞ」
「構わないさ」
中禅寺はまず手に触れる。ぐ、と握りしめられると、心臓が早鐘を打つのを感じた。
学生の頃、熱に浮かされたように触れ合ったことを思い出す。あの頃は口づけを交わすくらいで精一杯だった。大学に進学してからは何度か深く交わったが、それも随分前の話である。そんな思い出と、よく解らない恐怖心とがないまぜになって私を襲う。
するり、と手が頬を撫でる。そして指が、耳に。
──あら、可愛らしいこと。
──うふふ。
「は、ぁ」
「関口君、関口、僕を見るんだ」
「ぅ、」
ぎゅっと閉じていた瞼を開けば、目の前には見慣れた友人の姿があった。私に触れているのは陶器のような手ではなく、ごつごつと骨ばった手である。
ぐらぐらと揺れる頭の中が、少しずつ平静を取り戻していく。
中禅寺は私の手を温めるように両手で包み込んだ。手汗がひどいことに気がついて手をひっこめようとしたが、強く握られてそれは叶わなかった。しかし、さっきほどの恐怖は湧いてこなかった。
次に中禅寺は私のことを抱きしめた。私は思わず息を詰める。躰がこわばるのを感じた。
「関口君、深呼吸をしたまえ」
云われるがままに吸って、吐いてを繰り返す。
「そう、それでいい」
後ろ髪をさらさらと撫でられる。それはなぜだかひどく安心させるものだった。躰の力を抜いて、少しだけ中禅寺に寄りかかる。
「今日はここまでにしよう」
そう云って中禅寺は身を離した。急に疲れがどっと押し寄せてきて、その日は夕飯を食べた後、すぐに寝てしまった。
次の日も、私は中禅寺に触れてもらうことにした。
昨日のおかげで、手を握られるのはすっかり慣れて落ち着いていられたし、抱きしめられるのも大丈夫だった。私はじれったくなって事を進めることにした。
「今日は蒲団の上でやってみないかい」
「君がそう云うのならそうしようか」
立っているのとは違う、逃げにくい状況なら違った効果を得られるだろう、という算段だ。
蒲団の上に座った私を、中禅寺がゆっくりと押し倒す。それだけでにわかに緊張した。
それから中禅寺は昨日と同じように私の頬を撫でる。背中にぞわりと悪寒が走る。脳裏にあの少女が現れる。
「は、ぅぐ」
「関口」
「止めないでくれ、もう少し、もう少しなら大丈夫だから」
厭な予感を振り払うために、目を開けて中禅寺の顔をよく見る。
いつもの毅然とした表情とは違い、少し苦しそうな顔をしていた。なぜ中禅寺がそんな顔をするのか解らなかったが、友人を苦しめるのは本意ではない。ここでやめるべきだろうか。だがそれではこれからの生活が立ち行かなくなってしまうし、チャンスは今しかないのだ。
中禅寺の手の動きに集中する。それはひどく優しい手つきで、いつかの交わりを思い出させるものだった。だんだんと私は落ち着いてきて、その代わりに少しだけ興奮を覚えた。
身を起こして、私から触れるだけの口づけを仕掛ける。
なんだ、大丈夫じゃないか。
中禅寺は少し驚いた顔をしたあと、向こうからも口づけてきた。頬や耳、首筋に唇が降ってくる。私はずいぶんと満たされた気持ちになった。
そして伺いを立てるように、私の唇にそっと中禅寺の舌が触れる。受け入れるように唇を開き、その舌を迎え入れた。
ぬるり。
駄目だ。それ以上は。
そこから先は、いけない。
「ぁ、ぐ、はひゅ、」
私の異変を素早く察知した中禅寺はすぐに口を離し、代わりに抱きしめて頭をゆっくりと撫でた。
私が落ち着くのを待ってから、そっと身を離した中禅寺は苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。
その日はそれで終わりにして、明日に備えて眠ることにした。
そろそろお決まりになりつつある朝食を摂り、二人揃って家を出る。流石に連日ついてきてもらうのも恥ずかしかったので、今日は駅で別れた。
道中、お下げ髪の少女を見かけた。
どきりとしたが、その少女は制服を身に着けており、私は不安定になることはなかった。
白衣を羽織ると、少しだけ気持ちが切り替わる。いつも通りに振る舞うことを心掛け、私は顕微鏡を覗いた。
粘菌を見ている間は心が落ち着く。教授に勧められたからという消極的な理由でこの職に就いたものの、始めてみれば意外と奥深くて面白い。なにより粘菌は小さくて、懸命に動いていて、なんだか癒されるのだ。
仕事に来たのか癒されに来たのかよく解らないまま今日の就業時間は終わり、帰りの身支度をした。
駅で中禅寺と合流し、二人並んで席に腰を下ろした。私は暑くて汗を拭くのに忙しいが、中禅寺は涼しい顔をして座っている。少しはその涼しさを分けてほしいものだ。
帰ってきて私たちは流れるように座敷へ行き、どちらからともなく抱きしめ合った。
これだけは唯一、安心できる行為になっていた。
緊張していた躰がほぐれるのを感じる。思わず肩口に顔をうずめた。
私は背伸びをして中禅寺に口づける。そうすれば、中禅寺から口づけが返ってくる。おずおずと舌を差し出してみれば、中禅寺の舌がそろりと触れた。それから暫く、舌先だけを交わらせた。顎に唾液が伝う。
やがてゆっくりと、本当にゆっくりと中禅寺の舌が私の腔内に忍び込んでくる。口蓋を優しく撫でられ、歯列をなぞられれば、恐ろしさは快感で塗りつぶされていく。
もっと欲しくなって、私は客間へと中禅寺を誘った。
目が覚めると、今日も中禅寺は起きた後で、既に蒲団は畳んであった。学生時代に旅行に行ったときも同室だったが、遅くまで本を読んでいたと思ったら今度は早く起きるものだから、寝顔を拝んだことはただの一度もない。
昨日は口づけまではよかったが、下肢に触れられた途端に恐怖が勝って、その日はそこでおしまいとなった。自分のことながら、ひどくもどかしい。全く思い通りになってくれない。それでも、着実に改善しているのだから、あまり悲観しても仕方がないことではある。
家を出て坂を下ったあと、いつものように各各目的地へと向かう。この二日間で、電車の中でも随分と息がしやすくなった。少しずつ研究の調子も取り戻しつつあるし、中禅寺には感謝するばかりである。
歩きながら、今日は帰ったら何をしてみようかと考えを巡らせる。もちろん苦しい瞬間もあるが、それ以上に中禅寺に触れてもらえる喜びが日に日に増していった。
そういえば、ここ二日は夢を見ていないことに気がついた。これも快方に近づいている証拠だろうか。
今日は中禅寺の仕事が長引いているようで、借りた合鍵を使って私は家に入った。誰も居ない屋敷の中は静まり返っている。
誰も居ない、広くて静かな部屋。
そこにはソファが置いてあり、そこで、私は──
「なんだい、そんなところに突っ立って」
気がつけば、中禅寺が帰ってきてジャケットを脱いでいるところであった。私はいつからこの座敷で立ち竦んでいたのだろう。
「なにか、思い出したのかい」
中禅寺は全てを見透かしたような目で私を見る。
私はこの不安の、恐怖の正体を教えてほしかった。しかし私しか知らないことなど、中禅寺と雖も解るはずがない。
「夕飯にしようじゃないか。そろそろ麺類も名もなき料理も飽きてきたからな、今日は鮎を買ってきたよ」
「鮎か。久しぶりに食べるな」
七輪を引っ張り出してきて庭に置いた。
マッチを擦り、着火剤の新聞紙に火をつける。
燃え始めて仄かに赤く燃える木炭をぼんやり眺める。なんとなく安心感を覚えて、少し眠たくなった。
中禅寺は手際よく鮎に串を通して網の上に乗せる。
その後ろ姿を見ながら、私は口を開いた。
「明日には帰ろうと思う」
「そうかい」
短く答えて、中禅寺は縁側に座った。
これ以上、迷惑をかけたくはなかったし、なにより今の私と中禅寺があの先の行為を行うということ自体にも恐怖があった。何かが変質してしまいそうで恐ろしかった。それでも、その先を望む自分もいてどうにかなってしまいそうだ。それならばいっそ帰ってしまったほうがお互いに楽なんじゃないだろうか。
とくに何を云うでもなく、こんがりと焼けた鮎をつつき、白米と共に口に運ぶ。程よい塩味が米を食べる手を進める。
ここ数日で、随分と食欲も戻ってきたことに気がついた。
食べ終わった後は、いつも通りに私が皿を洗い、その間に中禅寺が風呂を沸かす。
浴槽に浸かり、深く息を吐く。ここ最近は緊張感からか、呼吸が浅くなって息苦しくなることが多い。せめて風呂の中だけでも、深呼吸をして躰をほぐしたかった。
風呂から上がって座敷に向かえば、そこには当然のように中禅寺が座って本を読んでいた。
「今日もいい湯だったよ」
「僕が沸かしたんだ、当然だろう」
などと抜かしながら、中禅寺も風呂に入るべく準備を始めた。
私は暫く本を読んだあと、眠気を覚えて蒲団に潜り込む。
しかし悪夢に襲われて、風呂から上がってきた中禅寺に起こされてやっと悪夢から抜け出すことができた。
中禅寺に触れてもらうことが悪夢を見ない条件のような気がして、今日も触れてもらうことを求めた。
結果として、私は中禅寺に抱かれた。
前が駄目なら後ろから、と云わんばかりに暴かれ、久しぶりであるという不安は見事に覆された。押し寄せる快楽に頭が働かなくなり、恐怖はそれを上回る気持ちよさに塗りつぶされ、どこを触られても全身が歓喜に打ち震えた。
そういうわけで、今日は腰が痛いわ下腹は疼くわで蒲団から出られずにいた。休日だったからよかったものの、そうでなければさすがの私も怒っているところだ。
しかし腰こそ痛むものの、行為自体はひどく丁寧に、且つ優しく行われた。いつかのそれが乱暴だったとは云わないが、やはり変わることもあるものだな、と思わずにはいられない。
この日はもっぱらうたた寝をしながら過ごした。座敷で日差しを浴びながら、時折鳴る風鈴の音を聞くのは、心に平穏を齎した。
私が眠っている間に電話があったらしく、千鶴子は今日にも帰ってくるのだそうだ。顔を合わせるのもなんだか気まずくて、私はそそくさと帰る支度をした。
久しぶりに帰ってきた我が家は、随分とこぢんまりして見えた。蒲団に倒れ込めば、当然、中禅寺の家の匂いはしなかった。なんだか少しだけ淋しかった。
+
座敷で寝転がり、うつらうつらとしながら過去のことを思い出す。
こうして長く泊まるのはあの時以来だろうか。大きな事件があったというのに、空はそんなことなど知らぬと云うように青く澄み渡っていた。
どちらも、大元となるきっかけが同じ人物というのもまた奇妙な感覚だった。
意識が落ちる。そしてその度に夢を見て目が覚めてしまう。おかげで私はだらだらしているくせにちっとも眠れやしなかった。
京極堂はいつかと同じ科白を吐いて蚊帳をひとつだけ張り、私達は並んで眠った。
自分の呻き声で目が覚める。睡眠の浅い京極堂のことだ、きっと起こしてしまっただろう。
寝返りを打って横を向くと、こちらを向いている京極堂と目が合った。
「すまない、起こしてしまって」
「構わないさ。それよりも、眠れないんだろう」
そう云って京極堂はやおら起き上がった。
何かを確かめるように、京極堂の手が私の頬に触れる。
脳裏にざらりとした感触が蘇る。
思わず私は眉を顰めた。
京極堂は私の腕をぐっと引っ張ったので、私はゆっくりと身を起こす。そうすると、これまたいつかと同じように抱きしめられた。そうだった、これだけは安心できるのだ。あやすように背中をぽんぽんと叩かれれば、随分と気持ちが落ち着いた。
それから私は横になったものの、眠気はやってこず、二三度寝返りを打つ。
「まだ眠れないかい」
京極堂が囁く。
半身を起こした京極堂の顔が近づいてくる。その視線は伺いを立てていた。私はそちらに顔を向け、受け入れるように瞼を閉じた。
触れるだけの口づけ。それだけでは物足りなくて、私はちろりと舌を出す。そこに京極堂の舌が触れる。そこから口づけは深いものへと変わり、私の躰の内側に熱がこもっていくのを感じた。
それから私はぐずぐずに溶かされていった。躰の内側も外側も快感を拾うだけの器官に成り果て、前も後ろも解らなくなるほどであった。それでも、今はそれくらいが丁度よかった。もう何も考えたくはなかった。
そしてその後は、泥のように眠った。夢はなにも見なかった。
次の晩もそういうふうに過ごした。あのときの続きのように。まるで愛されているかのような錯覚を覚える。しかしこれはあの事を思い出した私が、また同じような状態にならないとも限らないからであろう。
これは悪夢を見ないための、謂わば治療である。あのときと同じだ。
それでも、今だけは京極堂の腕の中で眠っていたかった。そこだけが唯一の安心できる場所だった。
昼過ぎに目が覚めて、隣を見れば今日も京極堂が傍で本を読んでいた。そういえばあの頃も、まるで見守るように、常に京極堂は隣りにいた。私が座敷に移動すれば、京極堂は座敷で本を読む。晩になれば、私が眠るまで隣で本を読んでいる。そして魘されれば、私を優しく抱いた。
次の日の朝、ふと、合鍵を借りていたことを思い出した。ズボンのポケットを探れば、それはすぐに見つかった。
「京極堂。これ、返すよ」
座卓の上に鍵を置いて、京極堂の方へと滑らせる。
私が手を離すと、京極堂は鍵を押し返した。
「これは君が持っていたまえ」
「でも」
「鍵があれば外で締め出されることもないだろう。冬場に凍えて風邪なんか引かれちゃ困るからな」
本当にこのまま受け取ってもよいものか悩んだが、これ以上反論しても勝てる気がしなかったので、仕様がなく鍵を受け取ることにした。
それから京極堂は店を開けるために立ち上がり、座敷から出ていった。
視線で見送ったあと、私は読みかけだった中国の魚料理の本を開いた。