70・ヴァルギニスへ、ゴメイザより
風呂敷を抱え、白い息を吐きながら目眩坂を登る。今回の目的は、お歳暮を送って受け取りがてら、何か記事になりそうなネタを引き出せないかという魂胆である。
私の交際関係が狭いこともあり、盆歳暮は数えるほどしか贈られてこないし送ることもない。それ故、出費が嵩むこともなく助かっている面もあるが、妻からは楽しみが減ったと不評である。私からすれば悩み事が減って万万歳なのだが、どうやら妻にとってはそうではないらしい。夫婦とて解り合えないこともある。
中禅寺宅へのお歳暮やお中元は毎度頭を悩ませ、しかし結局は茶葉やら和菓子やらを贈ることに落ち着くのだった。榎木津あたりが相手なら酒を贈ればまず間違いないので悩まずに済むのだが。
昨日は小春日和だったため油断して薄着で来てしまったが、今日は冷たい風が吹いて落ち葉が舞い、ついでに私の体温も奪っていく。道行く人人も上着の前を掴んだり頸を竦めたりして寒そうに歩いている。こんな日は鍋が食べたいなとぼんやり考える。
ふわりと落ちた葉を踏むと、さくりと小気味よい音が鳴った。紅葉の時期もすっかり過ぎて、茶ばんだ葉が地面を覆い、いよいよ冬の実感が湧いてくる。
さらにそれを強調するかの如く、普段は開け放たれている店の戸も今は閉じられていた。
がたがたと音を立てながら戸を引き、いつものように気の抜けた声をかけながら店の奥へと進む。
「今年も茶葉を持ってきたよ。出涸らしばかりじゃなく、たまにはちゃんとしたお茶を飲むといいよ」
「君が来る頃にはもう出涸らしになっているというだけで、きちんとした茶は飲んでいるさ」
そう云って、京極堂は読んでいた本を閉じ、こちらを一瞥した。
「少し暖でも取っていきたまえ」
京極堂は母屋へ向かうべく立ち上がる。気がつけば私の手は冷え切って赤くなっていた。
座敷の中はほんのり温かく、私は上着を脱いで手を火鉢にかざした。指先がじんわりと感覚を取り戻してゆく。
京極堂は話す気分ではないらしく、いつもの場所、いつもの仏頂面で本を読み始めた。私もこれといって特に話題がある訳ではないので、黙って火鉢のぬくもりを享受することにした。
京極堂とはよく話すが、同じくらい沈黙の時間を共にすることも多い。お互い気負わない関係というのは実に貴重だ。それ故に、私たちの関係はここまで長続きしたのだろう。
私は京極堂に倣い、本の山の中から適当に一冊抜き取って読むことにした。
それが案外面白い本で、いつの間にやら熟読しており、気がつけば数時間経っていたようであった。
いい加減に体が凝ってきて、本を置いてぐっと伸びをした。
外はすっかり薄暗くなっている。
冬は日が暮れるのが早い。
「一番星だ」
私は子供のようにそんな言葉を発した。
京極堂がふっと笑う。
「宵の明星だね」
「金星のことだったな。しかしなぜ日没後と夜明け前にしか見えないんだったか」
「君も相変わらずだな──」
京極堂は眉を吊り上げ、心底馬鹿にしたような顔を造った。
「──水星と共に、内惑星だから宵と明けにしか見えない。今は内合だから見えるのさ」
「そうだったか。すっかり忘れてしまっているな」
そういったことも授業で習った気がしなくもないが、私の記憶はもはや惑星の順序程度しか残されていなかった。
「いいかい、まず、太陽と内惑星との地心真角距離が最大となる瞬間を最大離角と呼ぶんだ。地球と金星の会合周期は約五百八十四日で、金星は九か月半ほど明けの明星として東の空に昇り、このころを西方最大離角と云う。そして外合後に宵の明星として西の空に沈むんだ。これは東方最大離角だね。金星が太陽の向こう側に位置する外合のころは、太陽の光が当たっている面を地球に向けて丸く満ちて見えるが、地球から金星までの距離は遠く、金星の視直径は小さくなって明るさはマイナス四等ほどになる。そうそう、金星がもっとも明るく輝く時期には、金星の光によって影ができることがあるね。ちなみに、寛弘三年に出現した超新星が地球上の物体に影を生じさせた記録があってね、瑞西、埃及、伊拉久、中国、日本に記録が残っているんだ。現在観測できるそれほど明るい天体は太陽、月、金星、火球、そして天の川だな」
京極堂は夜空を見上げた。私はその視線を追う。
雲一つない空には、だんだんと他の星も姿を現し始めていた。
「そこまで覚えられるものか。しかし、天の川もそんなに明るいのかい。冬といえばやはり天の川だよな。だが伝説があるとはいえ、星の帯を川に見立てるのはいささかロマンチストすぎる気がするがね」
「何を云う。君も文士の端くれなら、そのくらいの幻想を持ったらどうなんだね──」
そう云って、京極堂は干菓子をひとつ口に放り投げた。
「──さて、七夕の伝説についてはさすがに君でも覚えているだろう」
「元元は織姫と彦星は働き者だったけれど、結婚してから夫婦生活が楽しくなりすぎて怠けものになり、それを見咎めた天帝が川で二人を引き離したって話だろう。いくらなんでも、これを忘れることはないさ」
「大意としてはそんなものだ。この伝説は『古詩十九首』が初出とされているが、ここでは七月七日との関連性はまだはっきりしない。一方、『西京雑記』には前漢時代の采女が七月七日に七針に糸を通す風習が記されているが、織姫についての記述はないね。南北朝時代の『荊楚歳時記』には、七月七日が織姫と牽牛が会う夜であることが記載されていて、さらに婦人たちがこの日に針仕事を祈願する儀式を行っていたことが述べられている。これによって乞巧節と織姫・牽牛伝説の関連性が明らかになる。六朝時代の殷芸が著した小説に記されたものは、現在知られている七夕の物語と酷似していて、古代の起源を示すものとされているね」
私は、はあ、と間抜けな返事をしながら茶を飲む。茶はすっかりぬるくなっていた。
「針仕事の祈願が人口に膾炙した結果、なんでも願い事をするようになってしまったのか」
「そうには違いないが、まだ話には続きがあるぜ。乞巧節が日本に伝わり、奈良時代以降、宮中の節会としてとり入れられたんだな。その後、棚機津女や祓えの行事とも結びつき、民間に広まった際に今の七夕になったんだ。棚機津女は機を織る女のことで、これは単に読みの語源と考えたほうがいいだろうね」
「そういえば、日付には何か意味があるのかい。三月三日は雛祭り、つまり上巳の節句だし、五月五日は端午の節句、そして九月九日は重陽の節句だろう?」
「君にしてはいいところに目をつけたね。陰陽五行では、奇数は縁起の善い陽として重んじているんだ。九月九日は最大の陽数である九が重なっているからその名が付いただけであって、他の節句も重陽であることに違いはないね」
京極堂は興が乗ってきたようで、機嫌が良さそうに語っている。
「天の川の話に戻るけれど、西洋では乳に喩えられているんだったか」
「ミルキーウェイのことだな。これは希臘ギリシャ神話に因んでいる。ゼウスは、自分とアルクメーネーの子であるヘーラクレースを不死身にするため、女神ヘーラーの母乳を与えようとした。しかし、ヘーラーはヘーラクレースを嫉妬深く憎んでいて母乳を与えることを拒否した。そこで、ゼウスはヘーラーに眠り薬を飲ませ、ヘーラーが眠っている間にヘーラクレースに母乳を飲ませたんだ。しかし、ヘーラーが目を覚ますとヘーラクレースが自分の乳を飲んでいることに驚き、彼を払いのけた。その際、ヘーラーの母乳が流れ出し、それが天の乳の環になったという伝説が語られているんだな」
「昔の人は随分と想像力が豊かだな」
私の言を聞き、京極堂は仏頂面に戻る。
「現代人だってそうだろう。わずかな情報から妄想逞しく話を膨らませ、君が書くような下世話な話を作り上げるだろうが。全く呆れたものだよ。そんな暇があるのなら、もう少し建設的なことを考えてほしいものだね。なに、この国の将来を憂いてくれとはいわないさ。せいぜい夕飯の献立でも考えるのが健全だろう」
「う、その話は勘弁してくれよ。あれは糊口をしのぐためであってだな」
「君の動機はどうだっていいよ」
先ほどの機嫌のよさはどこへやら、京極堂は不味そうに茶を啜った。
このままでは私が不利な展開になるのは予想がついたので、早早に話題を変えることにした。
「天の川はだいたい解ったよ。他に何かないのかい? そうだな、もう少し実用的なことなんかは」
「星の実用的な利用法でいえば航海術の天測航法だな。陸地の見えない外洋で船舶や航空機の位置を特定するための航海技術で、基本的な手法は目に見える天体、太陽、月、惑星、恒星と水平線との間の角度、高度角と呼ばれる角度を計測することだ。最も一般的な天体航法の手法は、太陽の高度角を計測することで、月や惑星、航海年鑑に掲載された座標がある五十七個の恒星、他の天体も利用されている。これらの高度角を計測し、その情報を航海計算に使用して船舶の正確な位置を割り出すんだ。他にも同様に六分儀を使って計測した結果を使う天測航法の技法がいくつかある。例えば正午天測法やさらに古い月距法だ」
「ああ、六分儀は聞いたことがあるぞ。二つの物体の間の角距離を測定するための道具だろう。夜間で使用できるのが利点だったな」
「君は妙なことばかり知っているな。まだロランの方が現代的で有名だろうに」
京極堂は半ば呆れつつ話を続ける。
「古代の天体航法に使用されたのは黄道十二星座で、これが最初に記録された星座だな。これらの星座は、西洋占星術の基礎となった。西洋占星術は知っているかい」
「あれだろう、生まれた時期によって星座が決まっていて、それを基に運勢を占うっていう」
「そうだ。十二星座を含めて星座は八十八あり、これらの原型は亜米利加の天文学者が刊行したハーバード改訂光度カタログで確立された。その後国際天文学連合によって、全天の星座が八十八個として正式に承認されたんだな。多くは神話に由来しているが、かみのけ座なんてのもある」
「髪の毛かい。なんだか間抜けだな」
響きの可笑しさに私は失笑した。
そんな星談義をしている間に、日はとっぷりと暮れていた。夕飯の時間に間に合うように、私は京極堂を後にした。
日の暮れた夜の外は日中以上に空気が冷え切っており、私はぶるりと身震いをした。
歩きながら星星の瞬く夜空を見上げる。
冬の夜空は澄み渡っており、いくつもの星が瞬いていた。
星を使って位置を割り出せるというとこは、迷ったときは星を見るといいという訳だ。もちろん、六分儀もなにも持ち合わせていない私が見上げたところで、ただ美しいという感慨しか浮かばないのだが。
それでも、美しい星空は不思議と私の心を落ち着かせた。
家に帰れば、雪絵が出迎えてくれた。なんでも、科学冒険雑誌の編集、竹中がやってきて、今月号は特集を組む旨を伝えてきたらしい。それは奇しくも宇宙の特集であった。私は先ほど聞いた話を反芻した後、星の利用の方法について書くことに決めた。
後日、再び竹中はやってきた。
雪絵が用意した茶を一口飲んだ後、竹中が口を開く。
「どうです、何か題材は思いつきましたか」
「ああ、それなら、星の利用の方法、とくに航海についてを書こうと思っていまして」
「それはいいですね。他の作家さんは別の題材だと聞いておりますから、問題ないでしょう」
それから二三、今後の依頼について話した後、竹中は忙しそうに帰っていった。
どこかの編集なら、うへえとかなんとか云いながら何時間も入り浸っていることもざらにあるものだから、少しは竹中を見習って欲しいところだ。
文机に向かい、さっそく原稿にとりかかることにした。早く書かなければ、京極堂から聞いた話を忘れてしまいそうだ。
茫漠とした無窮の宇宙に思いを馳せる。
闇の中をひとりふわふわと漂うのは心地好いだろう。そこはきっと静かで、しがらみも重力もなく、つまりは自由なのだ。しかし、自由すぎるのもそれはそれで不安に駆られるかもしれない。重力という桎梏があるからこそ、地に足がついているからこその安心感というものは慥かにある。
それから星座の話を思い返した。星と星の間に繋がりを持たせて、星座で繋がっていると思うのは人間の勝手で、本当はバラバラに、何光年も離れて点在しているに過ぎない。人間関係もまた、そこに縁という繋がりがあるという思い込みでしかないように思う。しかし、その思い込みこそが、ときに救いをもたらすのだ。人を壊すのは人だが、人を救うのもまた人なのである。
星は昼間の間は存在していないように扱われるが、見えないだけでそこには星はあるのだ。見えないものは蔑ろにされやすい。他人の心、感情、過去、それから視界の外、見えない場所にある人人の暮らし──
そんなことをぼやぼやと考えていたら日が暮れてしまい、その日は一文字も原稿用紙の升目が埋まることはなかった。
締切は刻一刻と迫っているにも拘らず、気力という気力がどこかに行ってしまい、横になっていたらいつの間にか寝入っていた。体を起こすと、寝すぎたとき特有の倦怠感が全身を支配していた。
部屋は薄暗くなっており、夕方であることを示していた。流石に焦燥感に襲われ、とりあえず文机に向かうも、靄のかかった頭では何も思い浮かばず、これでは寝ているのとそう変わらない。
仕様がないので、私は散歩に出ることにした。
居間に出れば、雪絵が夕飯の支度をしているところであった。
「あら、タツさん。起きたのですね」
「ちょっと散歩に行ってくるよ」
「それなら鏡を見てからのほうがいいですよ」
雪絵はそういいながら微笑んだ。
いわれたとおりに身なりを確認すると、シャツはしわくちゃで髭は伸び放題であった。髭をあたって着替える。少しは見られる格好になったので、玄関扉に手をかける。
外に出ると、家家の屋根の向こうに、冬にしては珍しく、柔らかく晴れた空が広がっていた。橙色の陽が雲を染め、空は薄い青に染まっている。きんと冷えた空気が、寝ぼけた頭をいくらかしゃっきりとさせてくれる。
こういうときは大概いつもの喫茶店に行ってコーヒーでも飲むのだが、夕飯前なのでそうもいかず、とりあえず川沿いを歩くことにした。
川に向かう道中、スーツを着た人とすれ違った。私も傍から見れば同じように退勤途中に見えるだろうか。いや、手ぶらな時点で、やはり散歩をしているようにしか見えないだろう。
川沿いに着くと、川のせせらぎが聞こえてきて、その音に身を包まれる。辺りを見渡せば、学校帰りの学生や主婦なんかが忙しなく歩いていた。その流れとは逆に進むように歩き続けていると、なんとなく疎外感を覚えた。しかし、そうでなくとも私は常にそういうふうに生きているようにも思う。
居心地が悪くなって、私は逃げるように住宅街へと向かった。
地面を見ながら、ただ交互に足を動かす。
そうしている間にすっかり方向感覚を失い、自分が今どこにいるのか解らなくなってしまった。大の大人が迷子だなんて笑い話にもならない。太陽で方角を確かめたとて、それで帰り道が解るわけでもない。周囲には人っ子ひとりおらず、道を聞くのもままならなかった。すっかり途方に暮れ、私はその場で立ち止まった。こんなに心細い気持ちになるのは子供の頃以来だ。まるで親を見失ったような、そんな気分である。
暫く立ち竦んでいると、目の前を見慣れた着流しの男が通り過ぎた。私は急いで後を追う。
「ま、待ってくれ京極堂」
「関口じゃないか。何故こんなところにいる」
京極堂は振り返って怪訝な顔をする。
「なに、散歩をしていただけさ」
「その割には随分と焦って僕を呼び止めたじゃないか。君が迷子になろうが僕には関係ないがね、そうやって闇雲に歩くのは止したほうがいいぜ」
この男には隠し事が通用しない。うっ、と声が漏れて顔が赤くなるが、背に腹は代えられない。京極堂の小言を聞きながら、後を追うように歩き出した。
「君こそ何故ここを歩いていたんだい」
「それは君、仕事以外にないだろう」
そう云って京極堂は手に持った風呂敷をひょいと掲げた。おそらく本が包んであるのだろう。
「君の店は売れるよりも買い取るほうが多いんじゃないか」
「そんなことはないさ。君が知らないだけで結構売れているよ」
それにしては、店の中にはあちらこちらに棚に入り切らなかった本が積まれているし、ふと気がつけばその山が増えているようにも思えるのだが。しかし店主がそう云うのなら、そうなのかもしれない。
急に京極堂が立ち止まったので、私は少しつんのめった。
「関口、君はいつまでついてくるつもりだい。君の家は向こうだよ」
いつの間にやらよく知った道に出ていた。ここからならば、すぐに帰ることができる。
「君のおかげで助かったよ」
「次もたまたま会えるとは限らないからな。せいぜい気をつけて散歩したまえ」
そう云って京極堂は帰っていった。
幾日かして、私は再び眩暈坂を登っていた。今度の散歩は道のわかる場所だ。
いつもと変わらない道のりも、ゆっくり周りを見渡すと違った景色に見える。いつの間にか新築の家が建っていたり、寒さをものともせずに咲いている野花だったりが目に入る。
空を見上げる。どんよりと曇った天色を眺めながら、昼間の見えない星に思いを馳せる。どこにどんな星があるのだろう。どんな輝きを放っているのだろうか。
そんなことを考えつつ上を向いて歩いていたら、坂の途中で躓いてしまった。
「なんだい、その妙な歩き方は」
古書肆は帳場から私の姿を認め、そう声をかけてきた。
「ちょっと星を見ながら歩いていたらこけてしまってね」
「見えないものを見ようとするのは勝手だがね、それが原因で怪我をしちゃあ元も子もないだろう」
膝はまだじんわりと傷んでいたので、帳場の横に腰掛けて少し休ませてもらうことにした。
「何億光年と離れた星なら、遠い昔の光を今見ているんだよな。その星はひょっとしたら今はもうないかもしれない。過ぎ去った過去を見れるとするならば、僕は君の光も見てみたいな」
ふとそんなことを思い、私はそう呟いた。
「そんなに面白くはないさ。それに近すぎて今しか見えないだろう。どうしても見たいなら、光よりも速く三十光年は離れることだな」
「ふふ、それは無理があるな。今だけでもう十分だ」
「そうだろう」
可笑しそうに口角を上げたあと、京極堂は手にしていた和綴じの本を置いた。
「星といえば、君のところの神社も星が使われているよな。慥か晴明桔梗といったか」
「そうだ。安倍晴明が五行の象徴として五芒星の紋を用いたことに由来しているね。一般的な五芒星は、陰陽道における魔除けの呪符だな。陰陽道の基本概念の陰陽五行説、木火土金水の働きの相克を表したものだ」
それ以降は流石に星の話題は尽きて、神主の仕事を聞いてみたり、陰陽五行説について教えてもらったりした。
「そうだ、図書館にも行こうと思っていたんだった。そろそろお暇するよ」
「帰り道は足元を見て行くことだね、関口センセイ」
「云われなくともそうするさ」
私は戸に手をかけ、京極堂を後にした。
外は相変わらず寒かったが、図書館に着く頃には体は程よく温まっていた。こうして図書館に来たのは、実に久しぶりのような気がする。
航海についての本を何冊か本棚から抜き取る。
本を読み込んで、噛み砕き、子供にも解るように書くのは大変に骨が折れる。専門用語をいちいち調べ、堅苦しい語彙を易しいものへと置き換え、そしてなにより興味を惹くように書かねばならないのだ。
持参した手帳に必要な部分を書き写しながら、頭の中でどういった記事にするかを練る。それを忘れるといけないので、本文の隙間に書きつける。
丁度区切りがついたところで閉館の鐘が鳴った。
私は寒空の中、帰路につく。
宵の明星、金星を眺めながらぼんやりと歩く。
人生は航海のようなものだ。星、すなわち夢や目標を目印に進む。私なんかは常から自分の内側の荒波に揉まれてしまい、目の前を見るので精一杯なのだが。己という船にしがみつく私を想像する。なんとも間抜けな姿だ。
しかし、荒波で船が揺れていると思っているのは実は私だけで、本当は私ひとりが目眩に襲われているだけなのかもしれない。いつだって空は晴れていて、星は煌々と私を照らし、地平線は真っ直ぐに伸びているのだ。
そして京極堂は私に進むべき道を教えてくれる。つまり、私にとって、京極堂は──
京極堂のおかげで記事が書けたのだからと思い、私は三度京極堂を訪れた。
古書肆は寒そうに手を懐に仕舞っている。
「来ないときはとんと来やしないのに、最近は立て続けに来るじゃないか」
「それがたまたま今回の雑誌の特集が宇宙でね、君の話が役立ったよ」
「君にネタを提供する気はなかったんだがな。僕の話を参考にしたならば、当然、原稿は落とさなかっただろうね」
「もちろんだとも。むしろ普段より早く入稿出来たくらいさ」
「そうでなくては困る」
私達は、いつもと同じように母屋へ回り、二人揃って火鉢にあたった。
私は慎重に口を開く。
「それでだな、京極堂」
京極堂は急かすでもなく、黙って続きを待っている。
「君は僕にとっての六分儀だな、と思ってね」
「君がそう思うのなら、そういうことにしておこうじゃないか」
そう云って京極堂は少しだけ笑った。
あまりにも解りにくい感謝の告白は、しかし京極堂には確りと伝わったようである。
それからというもの、京極堂に諭されるたび、ヒントを貰うたび、ああ六分儀だな、と思うのであった。それは遡って、今までもそうだったのだ。だからこそ、感謝の告白なのである。私が道を違わないよう、迷子にならないように、現在地を知るための糸口をくれるのだ。今いる場所がわからなければ、どこにも行けないから。
夜空を見れば、あの日の話を思い出す。あの何気ない一日も、きっといつか、かけがえのない一日になるのだろう。そして遠い星のように輝く。それが必ず、暗闇の中での道標となるのだ。