あの教室で

 僕が思うに、中禅寺と関口の距離は近い。
 いや、物理的に近いなんていうのはよくある話だ。男同士だと気が緩んで近づきすぎることはよくある。そして頭をぶつけるのは日常茶飯事だ。
 そういうことではなくて、なんというか、心情的に近いのだ。そして二人は、時折、なにかを共有しているように見える。そういうとき中禅寺は、本心から笑うことがある。ただそれは一瞬で、見間違いかもしれないと思うほど幽かで、他の皆には解らないだろう。だが、僕にはよく解るのだ。
 そもそも、なぜ関口は中禅寺と接点を持てたのだろう。
 関口にあって、僕にはないものは一体何なのか。これが解らなかった。
 僕からすれば、関口は実に平凡な男に見える。陰気な、どこにでも居るような学生。そんな印象だ。それなのに、なぜ中禅寺はあんなにも関口を気にかけるのだろうか。
 僕は以前から中禅寺を知っている。あれはいつも仏頂面で、なにかにつけかんかんに怒っては、そのくせ世話を焼くのだ。そういう男なのだ。それがどうだ、関口に対しては柔和な態度を取っている。あの中禅寺が。否、表面上は他に対するそれと殆ど変わらないのだが、やはり僕には違うように思えるのだ。
 僕は中禅寺に憧れている。
 圧倒的な知識量。頭の回転の速さ。話術。どれを取っても優秀だ。対して僕は何もかもが平凡だった。まるで別世界の住人のようで、遠くから見ていることが精一杯だった。
 だから、僕はよく中禅寺を目で追いかけていた。関口が羨ましかった。
 ──しかし今思えば、その頃から既に、僕も関口に惹かれていたのだろう。
 関口となら対等に話せるのではと思い、僕は彼に近づくことにした。
 昼下がりの教室は少し閑散としていた。次の授業までの間、生徒は思い思いに過ごしている。窓からは爽やかな風が舞い込み、窓帷カーテンをひらりひらりと揺らしている。
 関口は隅で縮こまるように本を読んでいた。あのタイトルは知っている。
 僕は関口の前の席から椅子を失敬し、意を決して関口に声をかけた。
「君、その本はどうだい」
「──あ、こ、これかい? お、面白いよ」
「よかった。僕も面白いと思ったよ。特にこの、そう、この部分なんかまさに名言だよね」
「ぼ、僕は、この部分が好きだな」
 感想を語り合うついでに中禅寺のことを知ることができればいいとしか思っていなかったのだが、想像以上に話は弾んだ。
 最初は、関口は遠慮がちというか、どこか怯えているような様子であった。常に俯き加減で、視線は忙しなく動く。そんな関口に対して、なんだか庇護欲のような気持ちが湧いたことを覚えている。
 話していくうちに解ったことがある。関口は僕が思っている以上に感性が豊かで、思いもしなかった感想がいくつも聞けた。そしてそのことを褒めると、彼は顔を赤らめて、小さな声でありがとうと云うのだ。彼の声は基本的に小さい。だから自然と距離を詰めることになる。いつしかそれを嬉しく思う自分が居た。
 関口とはその後、随分と話すようになった。ただ彼は、自分の意見をあまり口にしない質で、そこがじれったい。彼が口に出せるようになるまで待つことが大事だと解っているので、急かしはなかったし、そしてそれを感じ取って関口は嬉しそうな顔をする。僕に意見を聞いてもらえるのを喜んでいるのだろう。そして彼は僕の意見もよく聞いてくれる。
 その頃には、関口の後ろ頭を眺める生活は終わった。彼の横顔を見られるのは嬉しかった。関口は僕と一緒にいると嬉しそうだったし、いつの間にか僕は彼のそばにいることが何よりも大切な時間になっていた。
 しかし、中禅寺がそれを知ったときのことを思うと、なんだか不安になった。
 だから僕は焦った。焦って、どうにかしようと思った。僕がどれだけ彼を思っているかを見せたかったのだと思う。僕は関口に云ったのだ、君が一番の友人だ、他の誰よりも君を大事に思っていると。関口は僕の言葉を聞き終わる前に赤面して、それからへにゃりと笑った。
 潤んだ瞳、紅潮していく頬や耳、そしてなによりあの笑顔は、今後一生忘れることはないだろう。
 その日の放課後のことである。
「君、一寸ちょっといいかね」
 あの中禅寺が僕に話しかけてきた。少し前の僕ならば、きっと飛び上がって喜んでいたことであろう。しかし、そのときの僕はなにやら後ろめたさのようなものを感じていた。
「君は随分、関口と仲良くしているようだな」
「う、うん」
 なぜだろう。彼の仏頂面は見慣れているはずなのに、そのときはひどく恐ろしく見えた。
「関口と関わるのは自由だがね、あれと居ると碌なことがないよ。この間なんて──」
 中禅寺の口から語られる関口は、僕の知っている関口とは随分と違っていた。そして僕は、関口のことをほんの少ししか知らなかったことを思い知らされた。
「──そういう訳だ。君はもう少し用心したほうがいいよ」
 中禅寺は僕を横目で見ながら去っていった。その視線はひどく冷たかった。
 僕は失敗したことを知った。関口に僕の一番だと思わせることが、そのまま中禅寺への牽制になると思っていたのだ。だが、それは違った。間違いだった。こんなのでは、中禅寺には敵わない。でも諦めたくもなかった。
 中禅寺はそれ以来、さらに関口と一緒にいるようになった。僕と関口が話しているときも、いつの間にか中禅寺がやってきて話題を持っていってしまう。まるでそれが当たり前のことであるかのように、自然に。そしてそれは、彼らにとって正しいあり方だと思わせる何かがあった。
 僕は関口の幸せを邪魔したいわけではない。
 しかし、この違和感はなんだろう。このもやもやとした気持ちの正体はなんなのだろう。そう、どちらもが僕を見ていないのだ。これは淋しさではない。もっと肚の底からぐつぐつと煮えるような、そういった感情だ。
 関口は僕を友人と云っているし、僕もそのつもりでいるのだけれど、関口の云うところの友情が、僕のそれと違うのではないかと思わざるを得ない。そして、関口と僕との間に横たわるものと、関口と中禅寺との間に横たわるものとの違いを考えざるを得なかった。
 つまり僕は、関口と中禅寺との関係性が特別なものなのではないかという疑いを捨てきれないのである。特に中禅寺は頭の冴える男だし、関口にとって善き理解者であろうから、それも仕方がないことであると理解はしている。しかし、それでも、僕はそれを快くは思えないのだ。
 中禅寺に関口の全てを盗られるという不安か。それはある。だが、それだけではないような気がする。そしてそれが何なのかが解らないからまたぐるぐると悩むことになる。
 関口は変わらず僕を友人だと云ってくれるが、僕に対する態度と中禅寺に対する態度か違うことは歴然としていた。それが悔しくて、悔しくてたまらなかった。これはただの友人に対する思いではないような気もするのだが、よく解らない。そして中禅寺に対しても、なんとも云えない感情を抱いていた。それもどういった感情なのかが解らない。結局、僕の不快さはそこに集約されるのだ。
 中禅寺は人を観察して、巧妙に動かす。だからこそ、関口は素直に中禅寺に従っているのかもしれない。そう思うと、なんとしてでもその呪縛から関口を開放してやりたくてたまらなくなった。そうだ。中禅寺はきっと関口を縛り付けている。僕が関口の手を引いて、そこから脱出させなければならない。いつしかそう思うようになっていた。
 最近の関口は、運よく二人きりになれても中禅寺の話ばかりしている。勿論、僕と関口とでは話題には事欠かない間柄であった。しかし、彼の口から発せられるのは、
 ──中禅寺の奴は、
 ──中禅寺がね、
 ──中禅寺はさ、
 と煩いことこの上ない。そしてそういうときの彼の顔は間違いなく、いつになく楽しそうなのだ。あんなに聞きたいと思っていた中禅寺の話だというのに、苛ついて仕様がなかった。
 僕は多分、中禅寺に対して強く嫉妬している。彼の能力に対してではない。関口とあそこまで強い結びつきを持っていることに対してだ。そしてそれを認めたくないとも思っている。さらに関口がそのことに気がついていないことにも苛立っている。
 しかし、もし関口がその事実を知れば、きっと彼はどうしていいか解らなくなってしまうだろう。僕から離れていってしまうかもしれない。それだけは絶対に嫌だった。だから、今のままでいい。今のまま、友達でいられることができれば、それで──

 忘れもしない。九月十六日、月曜日。あの日の夕方、僕は寮に居たのだが、そのとき関口の声を聞いた。なにやら尋常ではない様子だったことを覚えている。その日を境に、関口は授業に出てこなくなった。僕は関口の様子を知りたかったが、部屋がどこなのかさえ知らないことに、そのときになって初めて気がついたのだ。あの日なにがあったのか、僕は終ぞそれを知ることはできなかった。
 半月ほどして関口は授業には出るようになったが、今まで以上に塞ぎ込んでいるように見えたし、授業が終わればすぐに自室に戻っているようだった。休み時間に声をかけても、どこか上の空というか、なんというか、まるで空っぽになってしまったかのようだった。あの頃の関口は、ずっと虚ろな目をしていたことをよく覚えている。
 一年ほど経った頃だろうか。関口が恢復していくのに比例するが如く、中禅寺と関口の距離が近づいていた。どういうわけか、彼らが二人でひとつのようになったのだ。より親密に、より強く結びついたように見える。関口の中禅寺に対する依存は一層深まった。それから常に中禅寺を気にしているし、なにかと行動を共にしたがる。僕はそれに気がついているが、多分、関口本人は気がついていないだろう。そして中禅寺はそれを理解したうえでそうさせている。
 僕は蚊帳の外になってしまった。
 もう関口にも中禅寺にも触れることは叶わない。そんな気がした。
 事実、僕は以前のように彼らの背中を見ることしかできなくなっていた。きっと、もう二度と隣には立てないのだ。
 もはや悔しいとさえ思えなかった。彼らは二人でひとつで、それがあるべき姿で、僕なんかは不純物でしかないのだ。
 僕に許されたことは、教室で、誰にも解らないほど幽かに笑う、僕だけに解る二人の笑顔を斜め後ろから眺めること。それだけだった。
 聞けば、関口は中禅寺に連れられて様様な人と交流を持っているらしい。なんとあの榎木津とすら仲良くしているんだとか。そんなこと、今まで知らなかった。知ろうともしなかった。僕は何も解ってはいなかったのだ。
 時は過ぎ、僕らは卒業を迎えた。
 去年以前の卒業生も交えた破茶滅茶なストームをなんとか抜け出し、僕は慎重に関口の姿を探した。せめて最後に挨拶がしたかった。
 校舎裏に駆けていく後ろ姿が見えた。あの走り方は間違いなく関口だ。僕は後を追う。
 なぜだか飛び出していくのは躊躇われて、壁からそろりと様子を伺った。そこには関口の背中と、もうひとりの人影が見えた。そして二人の影は近づき、重なり合う。
 二つの影が離れたとき、向こう側に居る人物がちらりと見えた。
 そこには当然のように中禅寺が居た。
 一瞬、目が合う。
 その視線は驚くほどに刺刺しく、そして冷たかった。
 あのときの比ではない。
 蛇に睨まれた蛙のように身動きが取れなくなった。
 中禅寺に手を引かれて、関口が去っていく。

 それが、僕が最後に関口を見たときだった。