客、あるいは証人
今日も私は馴染みの古本屋に訪れていた。以前、この古本屋の店主が、好きな作家の初版本を安価で売ってくれたことから、それ以来この店には足繁く通っている。
店内に入ると、商品棚を物色している一人の青年が目に留まった。その青年は黒髪の猫背の男で、ぱっと見た感じは地味そうな印象だった。私は、彼がどんな本を買うのか興味を持ち、暫く様子を窺っていた。しかし、その青年は本を手に取らず、帳場に座っている店主の元に向かった。
「やあ」
青年は馴れ馴れしく店主に声をかける。店主は仏頂面で本を読みながら青年を一瞥もしない。
「今日は客がいるから君の相手をしている暇はないよ」
「じゃあ彼が帰るまでここに座っているとするさ」
そう云って青年は帳場の横に置かれた椅子に腰掛けた。
「君ね、そんな客にプレッシャーをかけるような真似をするんじゃないよ。勝手に母屋にでも行っていることだな」
店主は迷惑そうに云った。青年はそんなことなど意に介さず、ただ黙って座っている。
暫く店内をぶらぶらしていると、やがて興味のある本が見つかり、私は勘定を頼んだ。店を出ると青年はまだ同じ場所でぼんやりしていた。私がこの店に来てから、三十分近く経っていた。
数日後のことである。私は買った本を読了し、再び件の古本屋に向かった。
店先に立つと、店主と青年の会話が聞こえてきた。私はそれを聞きたくなって、玄関口に立ったまま会話を盗み聞くことにした。
「──のことさ。もうそろそろ書かないとまた原稿を落とすことになるぜ」
店主はそうからかう。青年は相変わらず陰気な調子で返す。
「僕の原稿を待っている人なんて、この世にいないよ」
「そんなことはないよ関口君。少なくとも編集は待っているぜ」
「編集者は待っているかもしれないが、読者は待っていないよ。それに僕は自分の書きたいものを書いているだけで、別に誰かのために書いているわけじゃないからね」
「まあ、それはそうなんだがな。しかしね、君は書くのが仕事じゃないか。好きでやっているんだろう」
「それはまあ、そうなんだが──」
青年は口籠った。そして暫く沈黙が続いた後、彼の口から意外な言葉が発せられた。
「僕はただ──書きたいように書いているだけだよ」
私はその言葉の意味を考えた。彼は自分の書きたいものを書いていると云った。しかし、それでは仕事にならないだろう。彼は仕事をする上での制約をどう考えているのだろうか。
いや、私が彼が記者だと早とちりしていただけで、本当は文士なのかもしれない。それなら得心がいく。
「まあ、君がどう考えようと勝手だがね」
「僕の書くものは──誰かのためになるものじゃないよ」
青年の声色はどこか寂しげだった。
「それは君の思い込みだ」
店主はきっぱりと云い切る。
「しかし、実際そうじゃないか。僕は、誰かのために書きたいわけじゃ──」
「それでも、君は作家だろう。ならば書き続けるしかないだろう」
青年の言葉に被せて店主が云う。青年は更に語気を強めて反論した。
「僕はただ、自分の過去を書き表しているだけ。それだけだ」
青年はそれだけ云うと店を出た。私は焦りながら、今しがた着いたふりをした。
それから私は店に入り、いつものように本を物色した。ぱらぱらと捲り、いくつか気になった本を帳場に持っていく。先ほどの会話を聞いた影響か、私は店主と話をしてみたくなった。最近、好事家の間で話題になっている作家について、大の読書家らしい店主なら知っているだろうと思ったからだ。
「──ああ、そうだ、関口巽という作家を知っていますか」
私がそう問うと、店主は一瞬、まるで嫌なものでも見たかのような顔をした。そしていつもの仏頂面に戻る。
「まあ、知っているには知っているよ」
歯切れの悪い物言いだ。まるで関わりたくない、という様子だった。彼は何をそんなに厭がっているのだろうか。 店主は続ける。
「しかし君ね、関口巽なんて妙な名前の男には近づかない方がいいぜ」
あの青年は関口巽なのか? いや、ただ同じ苗字だというだけかもしれない。
「それは、どういうことですか」
「あの男に関わると、碌なことにならないよ」
そう云って店主は顔を顰めた。
私は、やはりこの店主は関口巽のことをよく知っているらしいと思った。同時に、何故店主がそんなに厭そうに云うのか不思議だった。その作家は、そんなに困った人なのだろうか。
「彼は──どんな人なんですか?」
「あれは鬱屈している癖に妙なことに巻き込まれることが多い。その癖、本人は殆ど何もしないからな。僕なんかも辟易しているよ。そういう訳だ」
そう話を結んで、店主は本を勘定した。
それ以降、私と店主は時折話をするようになった。主にくだらない世間話なのだが、彼の口からはよく「知人」という言葉が現れるようになった。知人、と云うと遠い存在に聞こえるが、店主の語り口は極めて親密さが込められているように感じられた。
「それでその知人なんだがね、この間なんて何もないところで躓いていてね、僕はもうそんな歳なのかと云ってやったのさ。そうしたら、いやこの地面は凹んでいるだのなんだの言い訳をするのさ。僕からみればただの平地にしか見えないんだがね。そのあと入った喫茶店では──」
やはり知人というよりは友人、いや、親友と云ってもいいのではないだろうか。しかし、私がその人を友人と云うと、彼は仏頂面になって、ただの知人ですよと毎度訂正するのだった。
私はその知人がどのような人なのか気になりつつあった。
ある日、またいつものように古本屋に向かっていると、例の青年が店先にぼうっと立っているのが見えた。私が会釈をすると、彼は目を逸らして通り過ぎようとしたので、私は彼に声をかけた。
「関口巽さん──ですか」
私が問うと青年は驚いたようにこちらを振り向いた。そして酷く狼狽した様子で私の目を見つめた後、小さく頷いた。やはりこの人が関口巽だった。店主の説明通りの地味で陰気そうな男だ。
「僕のことを知ってるんですか」
彼はぼそぼそと小さな声で云った。私は、この古本屋の店主とは懇意にしているから、と説明した。そして彼に問うた。
「あなたは店主の云うところの知人、ですね?」
私がそう訊くと、彼は「僕は友人だと思っているんですがね」と肯定した。そこで私は話を進めることにした。ちょうど良い機会だと思ったのだ。このまま彼と友人になることが出来れば、より彼を知ることができるだろう。
「僕はこの古本屋の店主と親しくしている者なんですが、あなたはここらに住んでいるのですか」
私がそう問うと、彼は小さな声で、そうです、というようなことを云った。少し聞き取りづらかったので、私はもう少し大きな声で話すようお願いした。彼は小声ながらも今度は聞き取れる声で返事をした。
「僕は貴方の作品の読者です。実は、近代文藝にコラムをお書きになっている頃から存じておりまして」
「そ、そんなに前からですか。恐縮です」
「新作の目眩は素晴らしかったですよ。とくにあの不気味とも不思議とも取れるような舞台と文体が私好みですね」
「あ、ああ、そうですか。それはどうも」
彼は顔を真っ赤にして顔を伏せた。
「ところで、ここで何をしていらっしゃったんですか?」
私がそう問うと、彼は目を逸らしながら云った。
「い、いや少し疲れましてね。ちょっと休んでいたんですよ」
そして足早に立ち去ろうとしたところで、店から店主が現れた。
「関口君、来たと思ったら早早に帰るとはどういう心算だい」
「どうもこうも、僕が君のところに行こうが行くまいが僕の勝手だろう」
やはりこの店主と関口は親しいようで、随分と遠慮のない云い合いをしている。
「そんなことを云ってもね、君は来たら決まって座敷入り浸っているだろう。今日もそう来るだろうと思って茶を入れて待っていたんだぜ? せっかくの──」
そこまで云ったところで店主はハッとしたように私のほうを見た。そして咳払いをしてから私の方に向き直った。
「ああ、どうも。この馬鹿がご迷惑をおかけしたようで」
私はいいえ、と云った。店主はちらりと関口を横目で見る。関口は、どこか困ったような顔をしていた。
「まあ、君は座敷にでも行っていたまえ。僕はこの方と少し話があるからね」
そして店主は私を振り返り、小声で云った。
「あなたはもうこれ以上関わらないほうがいいですよ。あいつはどうにも危なっかしい男でね」
私が初めて関口巽の名前を出した時と同じように店主は忠告した。それと同時に、この古本屋の店主が「知人」を語るときの顔を思い出して少し可笑しくなった。きっとこの人も私と同じなのだろうと思う。理由もなく、彼、関口に惹かれてしまうのだ。
「あなただって彼を随分気にかけているじゃありませんか」と云いたかったのだが、店主に睨まれそうなのでやめておいた。
その後、少し世間話をしてから帰路についた。
それから私は少し仕事が立て込み、あの古本屋からは暫く足が遠のいていた。今日は久しぶりに店を訪れる。
店先から店内を覗くと、帳場の前に関口が立っており、店主の姿は頭ぐらいしか見えなかった。
「──きょうごくど、」
「関口、──」
小さな声でのやり取りだったからよく聞こえず、私は耳をそばだてた。
「──続きは座敷でしようか」
その店主の声は、今まで聞いたどの声色よりも優しく、そして甘やかであった。
私はなにか知ってはいけないものを垣間見てしまったような気がして、慌てて店から離れたのであった。