投光
私は映画館に居た。
映写機がカラカラと回る音がする。
映し出されるのはモノクロオムの記憶。
かつてあったこと。
もう戻れはしないこと。
愛し合っていたあの日々。
青白い月に照らされた、
青白い君の顔。
君の細い腕が私を抱く。
それだけで私は満たされた。
ただ、それだけでよかった。
私は思い出していた。昔のこと。もう過ぎ去ってしまったことを。
目の前の原稿用紙には、書きかけの短編恋愛小説が綴られている。
雑誌の埋め草として私に白羽の矢が立ったのだが、その号は恋愛もの特集であった。私は依頼を受けるか否か大いに悩んだが、家計のことを考えると受けざるを得なかった。なんとも世知辛い理由である。
斯くして原稿に取りかかった訳だが、私は私小説じみたものしか書けないので、必然、過去の記憶を引っ張り出しつつ書くことになる。
筋書きはこうである。少女は鏡の中の少年に恋をしてしまい、手の届かないその世界に恋い焦がれるようになる。満月の夜、いつもの鏡を見に行くと、鏡の中に居るはずの少年が目の前に居たのである。そうして満月の夜だけの逢瀬が始まる。しかしそれも長くは続かず、少女の夜中の出歩きが両親に知られてしまい、鏡は倉庫に仕舞われてしまう。そうして二人は引き裂かれてしまうのだ。その後、少女は成長し美しい女性になる。そして実家の倉庫を整理していると、例の鏡を見つける──
というところまではよかったのだが、その先が思いつかずに難航していた。
締切まであと数日しか残されておらず、私の焦りと比例して、筆の進みは遅くなるばかりであった。ここから先は想像で書くしかないのかもしれないが、それは私の苦手とするところであった。何事も取材が肝要である、などと云ってみる。
鉛筆を置いてぐ、と伸びをする。部屋にはボツにしたぐしゃぐしゃの原稿用紙が転がっている。とりあえずそれを拾って屑籠に放り投げた。テスト前と締切前ほど部屋の掃除が捗るときはない。
こういうときは思い切って息抜きすると妙案が降ってくることもあるだろう。そう己に云い訳をして、私は外に出た。行き先はもちろん京極堂である。なんとかしてネタになりそうな話を引き出さなければ。
ひとしきりどうでもいい雑談を繰り広げたあと、私はこう切り出した。
「この間、男女の心中事件があったろう?」
「またあることないこと脚色を加えた下世話な記事でも書くつもりかい」
京極堂は眉間に皺を寄せる。これは悪手であったようだ。
「いや、そういうのじゃないんだ」
「じゃあ何かね、君の苦手な恋愛小説の依頼でもきたのか」
図星を突かれて、思わずうっと声が出る。
「何度も云っているがね、僕は君にネタを提供するつもりはないよ」
取り付く島もない、とはまさにこのことだ。
現在、京極堂の細君は買い出しに出かけている。仕掛けるなら今しかないだろう。
「誰がために君を恋ふらむ恋ひわびて我はわれにもあらずなりゆく」
これは、中禅寺が私を抱きしめているときにふと口にした和歌である。あれもまた、満月の夜のことだった。
あの気持ちが恋だったのかは定かではないが、しかし私と中禅寺の間には慥かに何かしらの大きな感情が横たわっていた。
京極堂は虚を突かれたような顔をしていた。
「──いつもの健忘はどうしたんだい」
「原稿を書いているうちに思い出してね。君は僕を抱きしめてくれただろう、それも月夜に。今書いている話もそうなんだ」
「そんな昔の話をしてどうするんだい。もう終わったことだよ。せいぜいその記憶を頼りにして執筆に励むことだね」
京極堂はいつもの仏頂面に戻った。
「僕は、今だって君に抱きしめられることは厭ではないよ」
「それは知らなかったな。だがさっきも云ったがね、もう終わったことなんだよ、関口君」
話を切り上げて立ち上がった京極堂の背中を、ただ見つめることしかできなかった。
帰ってきてから私は再び原稿用紙に向き合った。
鏡を見つけた女は、かつて鏡があった場所に同じようにかけ、満月の夜を待った。そうするとあの日と同じように、かつて少年だった男が目の前に現れる。そして二人は抱きしめ合い、そして鏡の国へと駆け落ちする。
なんだかありきたりな気がしてならない。もう一捻り、何かがあればよくなる気がする。気がするのだが、その何かが何なのかは解らない。
私と京極堂は、もうお互い独り身でない。それは、やはり京極堂の云ったように終わったことなのかもしれない。終わったこと。終わってしまったこと。
そうだ。私はこの原稿を書かなければ生涯忘れたままだったのかもしれないのだ。ならば、女は男のことなど忘れており、立派な鏡だから勿体ないと家へ持ち帰るのだ。そして夜中にふと鏡の前を通り過ぎると、鏡の中に男がいる。女はその男のことは思い出せなかったが、それでも再び恋に落ちる。しかし鏡は割れて、二人の仲は永遠に引き裂かれてしまうのだった──
これならばどうだろう。
なんとなく、しっくり来た。
私にとって、中禅寺は手の届かない存在であった。すぐそこに居るのに、触れることは叶わない。口を利くことすら。私はきっと、中禅寺に憧れていたのだ。
あるとき、彼は傘を差し出してくれた。鏡から彼が出てきたのだ。それから私達は話をするようになった。そして私達は仲を深め、いつしか月夜に抱きしめ合うようになったのだ。それは二人だけの秘密の時間だった、
しかしそれも卒業と共に終わり、私達はそれぞれの道を歩むこととなった。戦争によって散り散りになった私達だったが、再び会うことができて、それまでの時間を取り戻すように私達は話し込んだ。私は中禅寺を、京極堂をもう一度好きになった。
しかし彼はもう終わったことだと云う。鏡は割れたのだ。
私はなんとか原稿を書き上げ、取りに来た小泉に渡した。小泉はその場でざっと目を通す。
「幻想的な悲恋ですわね。思わず切なくなってしまいました。ありがとうございます、関口先生」
そう云って出版社へと帰っていった。
私はその場にごろりと寝転がる。
本当に私達の鏡は割れたのだろうか。あの感情は、果たして終わってしまったものなのだろうか。あの気持ちは、今もあるのではないか。
数日後、脱稿の報告も兼ねて京極堂を訪れた。
「やあ」
「おや関口センセイ、原稿は落とさずに済んだかね」
「もちろんだとも。そう毎回毎回落としてると思われちゃあ心外だな」
「それは君、日頃の行いというやつだろう」
京極堂は本を閉じる。
──映写機がカラカラと回る音がする。
店を閉じるため立ち上がった京極堂の、その背中を目がけて私は抱きついた。
「──ずっと、こうしたかった気がするんだ」
その痩躯はごつごつとして骨ばっており、お世辞にも抱き心地がいいとは云えない。それでも、私にとっては唯一無二の安心できる感触だった。背中に耳を当てれば、とくとくと京極堂の心音が聞こえる。ああ、生きている。
暫くして、京極堂は私の手を引き剥がす。
「鏡は割られたんじゃなかったかね」
「でも君は、まだ割ってはいないだろう?」
「そうだよ。僕は割れないんだ」
京極堂は溜息を吐く。今度は京極堂が私を抱きしめる。
すこしひんやりとした彼の体温は、あの日と同じだった。
──映し出されるのは、
──今の私達であった。
+
きっと君は気がついていないだろう。
僕の奥に隠された鮮烈な劣情を。
それでいい。それがいいんだ。
きっと君は壊れてしまうから。
ああ、吐き気がする。
割ることのできなかった鏡には、
惨めな顔をした僕が佇んでいた。