月の位相
朔日
リー、リー、と秋の虫が鳴いている。
今日は話が大いに盛り上がり、というより脱線に脱線を重ね、なんだかんだで夕飯までごちそうになってしまった。
泊っていくかと訊かれたが、さすがにそれは厚かましいと思い辞退した。
家から出れば、外は真っ暗闇であった。今日は新月らしい。
「これを持っていきたまえ」
京極堂の手には五芒星の描かれた提灯が下げられていた。慥かにこの暗闇では足元が不安だ。とくにこの坂は妙に歩きにくい。私は提灯を借りて坂を下った。
──暗闇の中では、私の輪郭が溶けていくような錯覚を覚える。
──足と地面が癒着する。
──この提灯だけが、私の輪郭を露わにしてくれた。
──そうして私は歩くことができるのだ。
数日後、私は提灯を返しに京極堂の元へと向かった。私が訪れて少し話し込んだ後、骨休めの札を掛けて母屋へと向かう。相変わらず商売をする気があるのかないのかよく解らない。尤も、これで商売が成り立っているらしいので文句をつける筋合いはないのだが。
「先日鳥口君に取材に連れていかれたんだがね」
「また妙なことに巻き込まれていないだろうな」
「そこは心配いらないよ。廃病院の探索だったからね。これといってとくにめぼしい物もなかったよ」
「それは記者の仕事なのかね」
京極堂の指摘も尤もである。これでは学生の肝試しと区別がつかない。
「まあそれはいいとして、そのあとに行った喫茶店のプリンが美味しくてね」
「それは鳥口君と行ったのかい」
「うん? そうだけれど」
私がそう云えば、京極堂は眉間にしわを寄せた。
しばし沈黙が訪れる。私は昨日考えたことをふと思い出した。
「そういえば、月の裏側は地球からは見えないんだよな」
「なんだい急に」
「昨日は新月だったろう。そうしたら月についていろいろ考えてしまってね」
「そういうことは満月のときに考えるものじゃないのかね。そもそも昨日は朔日といって、新月とはまた別の物なのだがね」
京極堂は片眉を吊り上げる。
「まあいいじゃないか」
私は少々濃すぎる渋い茶を啜ってから話を続けた。
「月は自転周期と公転周期が同じになっているから、常に地球に同じ面を向けていて、それで裏と表があるんだったな。こういった同期は二つの天体の距離が比較的近く、相手の天体が及ぼす潮汐力が強い場合に起こると、こういう訳だ」
「それで、君は何が云いたいんだね」
「なんとなく、人間関係みたいだなと思ってね。地球は月を引き寄せ、月も地球に向かって引かれているだろう? この引力によって、お互いを中心に回転している訳だ。お互いに影響を与え合う姿なんかそっくりじゃないか」
「なるほど、さすがは作家先生だ」
京極堂は顎をさすって、如何にも感心したといったポオズを取った。
「なんだよ、人が真面目に話しているってのに」
「本心さ。君の考えはなかなか面白い」
珍しく褒められて、私はしどろもどろになってしまう。
「つ、つまりだな、僕が云いたいのは、その──」
京極堂は黙って茶を啜った。私は続ける。
「──僕と君との間にも引力があると、そう思うんだ」
「それはどうかな」
少し間を置いた後、京極堂は仏頂面になる。
「だってそうでなければ、こうして付き合いが続いている筈がないからね」
「何を云っているんだ。君が僕のところへ来るんだよ。それも結構な回数でね」
京極堂はそう云って笑った。
そうだ、いつだって私がこの古書肆と付き合いを続けているのだ。
「だったら、僕の引力なんてたかが知れている。僕の引力は君の引力よりずっと弱いんだろうな。いつか衝突してしまうかもしれない」
「──そんなことはないさ」
小さく京極堂が呟く。
その真意を、私は掴めずにいた。
私は夜な夜な締切に追われ、少年向け雑誌に掲載される原稿を書いていた。
昼間見た針のような月は既に沈んでしまっている。相変わらず暗い夜空は、手元のランプを消せば星空がよく見えた。
月と地球は近くで引かれ合っているが、他の星はどうだろう。広い宇宙にぽつんと浮かんで孤独ではないだろうか。しかし、孤独だからこそ落ち着くということもあるだろう。広い宇宙を揺蕩うのも、悪くないかもしれない。
星は恒星の光を受け、真っ暗闇でも己の輪郭を失わずに光を反射している。対して私はどうだ。日の光を目いっぱい浴びても、すぐに己を見失ってしまう。それどころか、自ら闇へ闇へと進んでいる気さえする。
闇の中は居心地が好いのだ。温かくて、暗くて、全てを赦してくれる気がする。それもまやかしにすぎないのだが。
それでも、私は暗い夜が好きだった。
三日月
ふらりと訪れた京極堂には、珍しく既に骨休めの札がかかっていた。母屋に向かえば、京極堂がなにやら慌ただしく身支度をしていた。
「出不精の君にしては珍しいじゃないか。何かあったのかい」
「少し遠方の知り合いから本の買い取りを頼まれてね。しかし彼は腰が悪い。しかも量が多いときたもんだ。それで僕が出向くという訳さ」
「なるほどな」
郵政省を信用しない京極堂らしい動機だ。
「丁度いい。関口、君も来たまえ」
「どうしてそうなるんだい」
「心配するな。駄賃くらいは出すさ」
そういう心配をしている訳ではないのだが。
斯くして私たちは電車に乗り、京極堂の知り合いの家へとたどり着いた。その家は、庭の手入れこそされていないものの、立派な瓦屋根の家屋であった。
「天童さん、お久しぶりです」
「おお、いらっしゃい中禅寺君。そちらは?」
「知人の関口です。荷物持ちにと連れてきました」
「こ、こんにちは。今日はよろしくお願いします」
「うん、こちらこそよろしく頼むよ」
天童と呼ばれた老人は如何にも好々爺然としており、好感が持てた。
「友人から譲り受けたはいいんだがね、屋根裏に置かれちゃ読みたくても読めん。しかし全てを一階に置くような空間も余っていなくてね、こうして頼んだ訳なんだ」
「なるほど。まずは全て降ろしましょうか」
「すまないが頼んだよ」
厭な予感は的中して、私が屋根裏から本を運び、京極堂と天童翁が鑑別をするという流れになった。
屋根裏部屋は少し埃っぽく、私は二三度咳込んだ。しかし光の当たらないここは本を保管するのには最適であるように思えたし、なにより私にとっても居心地の好い空間であった。本が所狭しと詰め込まれた空間は、京極堂の座敷を想起させる。
私は黙々と本を運び続けた。
件の友人が持ち込んだ本の量は半端な量では無かったから、作業は難航した。私は秋にもかかわらず汗みずくになりながら、本を抱えて行ったり来たりする羽目になった。
それでも昼過ぎにはかなりの量を一階に移すことができたのだが、それからも休む間もなく私と京極堂、天童翁で本の整理を続けなければならなかった。京極堂は本の表紙を眺めながら、パラパラと中身を確認して行く。そして時折私に手渡すのだ。私はそれを風呂敷に乗せていく。一方天童翁の方は一冊ずつを捲って目次に書かれている事項を確認し、その後中を斜め読みする。本の表題や内容に齟齬がないことを確認すると、それで作業は終了した。
京極堂を見ると、彼は楽しそうに仕事をしている。さすがは書痴だな、と思った。
「さて、こんなところかね。今日は来てくれてありがとうねえ。とても助かったよ」
天童が腰を叩きながら立ち上がる。
「いえ、またお役に立てることがあればなんなりと」
京極堂はまるで自分の手柄のようにそう云った。半分くらいは私の働きのような気がして納得がいかなかったが、古書のことはてんで解らないので私は口を噤んだ。
夕方になり、私たちは買い取った本を抱えて近くの喫茶店へと向かった。
「駄賃だ。奢るから好きなものを頼むといい」
駄賃とはこういうことであったか。私はメニューをぱらぱらと捲り、ホットケーキに目を留めた。腹は空いているし、夕飯にはまだ早い時間だから丁度いいだろう。
珈琲とホットケーキを注文し、先に珈琲が運ばれてくる。
「君は味音痴だからな、蒲公英珈琲を出されても疑いなく飲んでいそうだ」
「蒲公英で作る珈琲? そんなものがあるのか」
「焙煎した蒲公英の根から作るんだ。カフェインを含んでいないから妊娠中の妊婦でも飲めるんだな。また、二日酔いや肝臓に良いとも云われている。中国医学では蒲公英根は清熱解毒、利尿の成分として、他の生薬とともに煎じられて飲まれているんだ。それから、コーヒー豆の供給が困難になった第二次世界大戦下のドイツで代用コーヒーとして広く飲まれたそうだ」
そこから話は脱線して、ドイツ繋がりでファシズムの話をしたかと思えば、マルクスの資本論、そしてソ連繋がりで冷戦の状況、それからエスキモーまで話題は飛んだ。
そんな話をしている内にホットケーキは運ばれてきた。一緒に取り皿もついてきたので、一枚は京極堂にやることにした。
バターの塩味とホットケーキの甘みの塩梅が絶妙で、私はゆっくりとそれを味わった。京極堂のように一気に食べてしまっては勿体ない。
私は彼と違って、美味を噛み締めて食べる主義なのだ。
その後、中野に戻って本を座敷に置き、私は帰路についた。
空には沈みかけの白い三日月が浮いていた。
上弦
中禅寺は、関口の笑顔が好きだった。
それは笑顔と呼ぶには心もとない、ふにゃりとした微かな笑い顔であったが、それでもそんな顔を見れるのが一等嬉しかった。そんな彼を抱きしめたいと幾度となく思った。だがこれは気の迷いであり、我我は友人同士であり、だからきっとこの感情もいつかは消えるだろうと思っていた。
そう思い続けて十数年。ようやく中禅寺はその想いを認めた。認めざるを得なかった。自分は関口のことをなによりも大切に思っているのだ、と。しかし、認めたからといって状況がどう変化する訳でもない。中禅寺は自らの想いをひた隠しに隠して生きてきた。否、それは今も変わらない筈だ。友人として関口の傍に居られることが幸せなのだ。それ以上望めばきっと罰が当たるに違いないのだから。
それに、自分の存在意義は関口を愛することではなく、彼を生かすことにあるのだ。あの胡乱な精神を此岸に繋ぎ止め、彼の輪郭を描き出すこと。それだけだった。
中禅寺は本を閉じる。薄暗くなってきたので電灯をつけようと立ち上がれば、夕暮れの空に浮かぶ上弦の月が目に入った。
上弦の月──弦月の名は、輝いている半円部分を、弓とそれに張った弦になぞらえたもので、弓張月、弓張ともいう。弦月とだけ書いてゆみはりと訓読みすることもある。他に、恒月、破月、片割月などとも云う。これらは秋の季語だ。
片割月。中禅寺は心の中で呟く。自分の心もまさに半分のような気がした。もう半分は、もちろん──
望月
「できましたよ、お月見団子」
今日は雪絵を伴って京極堂に足を運んでいた。十五夜のお月見をしようという話であった。雪絵は団子を皿に載せて盆に載せ、茶の支度をして縁側へとやってきた。
京極堂はそれを受け取ると、丁寧に礼を述べた。
妻達は二人並んで和気藹藹と団子を食べている。
私はそれを横目に見ながら、庭を眺めていた。月がやけに綺麗であったのだ。
京極堂もそれを見ながら団子に齧りついた。
「月は太陽と並んで神聖視されることが多い。故に月神は様様な宗教にみられるんだな。有名どころでいえば、希臘神話のアルテミスは狩猟、貞潔の女神だ。後にセレーネーと同一視され月の女神とされた。また、闇の女神ヘカテーと同一視され、三通りに姿を変えるものだとも考えられたんだな。セレーネーは、ギリシア神話の月の女神であり、ローマ神話のルーナと同一視される。ヘカテーは、古代ギリシア語で太陽神アポローンの別名であるヘカトスの女性形であるとも、古代ギリシア語で意思を意味するとも言われている。また、エジプト神話の多産・復活の女神ヘケトに由来するとも言われているね」
「希臘だけでも三人いるのか」
「日本で云えばツクヨミだな。古事記と日本書紀によれば、ツクヨミは伊邪那岐命によって生み出された神で、夜を統べる月の神とされる。ただし、その神格には異なる解釈があり、文献によって異なる説が存在するね。古事記では、伊邪那岐命の右目から生まれ、天照大御神と須佐之男命と共に三神を形成するとされている。一方、日本書紀では、イザナギと伊弉冉尊の間に生まれたという話や、白銅鏡から生まれたという話も存在する。また、ツクヨミの支配領域も一定しないんだ。ツクヨミの支配領域については、アマテラスとの対比において不安定な描写が見られ、これは後にスサノオが挿入された結果とも考えられている。スサノオとのエピソードが重なることから、ツクヨミとスサノオが同一の神であるとする説も存在しているね」
云い終わってから京極堂は茶を一口飲んだ。
「万葉集にツキヨミやツキヨミオトコという表現で出てくるんだったか。単なる月の比喩としてのものと、神格としてのものと二種類あったと思ったな。他にも、月を擬人化した例として、月人やささらえ壮士なんかもあったっけ」
「そうそう、健忘のひどい君にしてはよく覚えているじゃないか」
「万葉集は授業でさんざんやったからね」
妻達はすっかり団子を食べ終わったらしく、いつの間にやら台所へと戻っていたようだった。
月は皓皓と輝き、中天に懸かっている。そして真白い光を惜し気もなく放射しているのだった。私達は揃ってそれを眺めた。まるで月の方が強い引力で吸い寄せているようだった。
ただ眺めているだけで、何故こんなに安心するのだろう。
月の光は、私にとっては死者のそれであるような気がする。天人五衰。太陽は生を象徴しながら、死に向かう。月の光を浴びていれば、静かな安寧が手に入るような気がするのだ。だから安心を誘うのだろうか。
月の光に照らされて、京極堂の顔がよく見える。闇夜のような瞳に視線が吸い寄せられる。
月が雲に翳る。
京極堂はおもむろに私の手を取る。
夜の闇に紛れて、京極堂は私の手の甲にそっと口づけをした。
それは盈月すらも知らぬことであった。
十六夜
いざよいとはためらうという意味だったか。記憶の隅から古語の記憶を引っ張り出す。
今の状況に合っている気がした。
私は先日の京極堂の行動を反芻していた。あれはどういう意味なのか。あの、手の甲に口づけをした意味は何なのか。
私は動揺して、それ以来京極堂の家に行っていない。また行けば彼の真意を聞いてしまいそうな気がしたからだ。それを知ることは、自らの想いを暴露することより遥かに恐ろしいことのような気がしたのだ。そうなるともう、どんな顔をして会いに行けばいいのか解らなくなる。
執筆に没頭して忘れていればそのうち平気になるかと思ったが、そうはいかないだろうことは予想がついた。それ程までに彼の行動は鮮烈だったのだ。だから私は、忘れてしまうことなどできよう筈もなかったのである。
ただやはり月だけは厭でも目に入った。
あの日以降、月はいやに冴えて見えるようになったのだ。
それが厭でも京極堂の行為を思い出させ、私は彼に会いにいくことを躊躇わせた。
それにしても、彼の真意が解らない。あんなことをするからには、私と同じ想いを抱いていてくれるのかとも思うのだが――そんな都合のよい解釈はあるまい。私と彼は単なる友人だ。ただの友人に口づけなどするだろうか。しかしそれは男女の場合であって、男同士では――ないこともないな。だが、そんなことがある訳がない。
京極堂は私のことをどう思っているのだろう。
友人だと思っているのだろうか、それとも――否、考えまい。それこそ都合の良い解釈だ。
京極堂からこんな大切にされていいのだろうか。私には身に余る僥倖ではあるまいか。
私は悶々としながら日々を過ごした。
空にはただ、十六夜の月だけが浮かんでいた。
居待月
中禅寺は数ヶ月来ない関口を待ちわびていた。惚れた弱みとでも云おうか、あれから来なくなってしまったことにも腹は立たず、ただ恋しいという思いだけが募るばかりであった。しかし、自分から会いに行くのも躊躇われる。
ただ待つということはこんなにも辛いことだっただろうか。まるで恋する少年のようだ、と思わず自嘲した。
中禅寺は変わらず本を読む。
ふと脳裏に浮かぶのは、百人一首のうちの一首であった。
心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな
あの日見た片割れの月を思いながら、待ち遠しく思うのだった。
下弦
私は数カ月ぶりに京極堂を訪れていた。
しかし、私は店の中に入る勇気が持てずにいた。そんな訳で店先をうろうろすることになったのである。
「君ね、そんなところでうろうろされても困るんだよ。まあ上がっていくといいさ」
京極堂はいつも通りの仏頂面でそう云った。
私が思っていたよりも事態は深刻ではないのかもしれない。私が数カ月訪れないこともよくあること。よくあることなのだ。
「何をそんなに怯えてるんだい」
「怯えてなどいない」
私は強がった。本当は動揺していたし、怖気づいていたのだ。しかしそれを云ってしまうと京極堂に負けを認めるような気がして厭だったのだ。
「とりあえず座ることだな」
そんな私を見て、彼はそう云った。仕方なく中に入り腰を下ろす。その動作のなんと緩慢なことだろう。座卓の前に座ったところで沈黙が流れた。
「このところ、どうしていたんだい」
京極堂の声色は実に素っ気ない。まるであの日のことなどなかったかのような口振りである。私はそれに少なからず安堵したような気持ちになった。やはりあれは何かの間違いなのだと思ったからだ。
「僕は――」
しかし言葉が続かなかった。京極堂は先を促すでもなく黙って私を見ているだけである。私は暫く逡巡した後、思い切って聞いてみることにした。
「京極堂。つかぬことを聞くがね。その、君は僕のことをどう思って――」
そこまで云ったところでいきなり襖が開いた。妻の千鶴子である。彼女は私を見てにこりと笑った。私は驚いて立ち上がった。座卓に脛をぶつけてとても痛かったのだが、そんな痛みは感じなかった程驚いたのだ。
「ああ、関口さん――ごゆっくり」
彼女は意味ありげにそう云うと襖を閉じた。私は酷く狼狽した。
「千鶴子に聞かれてしまったね」
京極堂は何を考えているのかわからぬ顔をしている。
「聞かれたねって、君」
しかし京極堂は顔色ひとつ変えない。私は動揺を隠せぬままに再び座に着くしかなかった。
「君は知人だよ」
彼の真意が解らない。彼は私をどう思っているのだろう。今の発言はどう解釈すればいいのか。
私のことなど何とも思っていないのか。私は再び悩むことになった。
「君は知人さ」
その呟きは、まるで京極堂が自分自身に言い聞かせているように聞こえた。私はそれ以上何も訊けなくなってしまった。
有明月
あれから、私はあのことを考えないようにした。忘れることにした。記憶に埋没させてしまえば、どうということはないのだ。
それでも、時折夢に見るのだ。私達が好き合うことを。
否、否──それは既に達成されているのだ。彼がいくら私のことを知人と呼んだとしても、私達は友人同士であることに代わりはない。きっとそれで十分なのだ。十分だと思わなければならないのだ。
きっとあの行動にも深い意味などなく、西洋風の親愛の表現でしかない。そこに特別な意味などないのだ。
そしてだんだんと肚が立ってきた。なぜ私だけがこんなにも思い悩まなければならないのか。それならいっそ仕返しでもしてやろうじゃないか。私は半ばやけっぱちになって京極堂へと向かった。
「なあ、京極堂」
「なんだい、座らないのかい」
私は一呼吸置いた。
「手を、出してくれ」
京極堂は素直に手を差し出す。
私はその手を取って、京極堂の手の甲に唇を落とした。
手を離せば、まるで私がされた方のように顔が熱くなった。
「君、これの意味を知っているのかね」
「なんとなくしか解らないよ。けどね、君のせいで僕はずっと悩んでいるんだ。仕返しくらいさせてくれよ」
「ただの仕返しなのかい」
「それは──」
これには私の想いも乗っている。けれど、それを云ってもいいものだろうか。
「──察してくれよ」
それが精一杯だった。
京極堂がふ、と笑う。
「君も僕も、不器用なことこの上ないな」
「違いないや」
つられて私も笑った。