沈黙の塔
気がつくと、私は塔の上にいた。
塔の周りには、複数の鴉が旋回しながら飛んでいる。
私は彼らに喰われるのだ。そう直感した。
私は鴉を視線で追いかけた。黒黒とした塊は、時折ガアと鳴いて、己が鳥であることを主張する。一瞬、鴉と目が合った気がした。
鴉が穢らわしいとされるのは、死体を喰らうからだ。だが、穢らわしいのは死体であって、鴉自体はむしろ神聖なのだ。八咫烏は導きの神だし、神の使いとされ神聖視されることも少なくない。つまり、この場で穢らわしいのは私なのである。
蝿が頭上を飛び回り、ブウンと音を立てる。きっと私は腐り果てているのだろう。だから蝿も集るのだ。
暫く経ち、ようやく鴉は私の元にやってきた。最期に彼らの養分となれるのなら、幾分ましな人生になるだろう。鋭利な嘴が私の皮膚に突き刺さり、そして肉をむしり取っていく。肚を抉り取り、柔らかい内臓を啄む。あまりの痛みに、私はすぐに後悔した。
──ああ、誰か助けてくれ!
だがそれは声にはならなかった。なぜなら、喉笛は既に噛み千切られた後だったからだ。
やがて嘴の矛先は眼球に向かい、私の視界は奪われる。底無しの闇のなかで、痛みだけが私の生を訴えていた。
目覚めると、鴉がガアガアと鳴き喚いていた。窓から差す光は橙色に染まり、今が夕刻であることを告げている。
ひどく厭な夢を視た気がした。その証拠に私は汗だくであった。
寝すぎて頭がぼんやりしている。
私は蒲団から起き上がると、台所で洋杯に水を汲み、一杯飲んだ。それから、重い身体を引きずって洗面所へ向かった。蛇口を捻ると、流れ出た水が私の手を濡らす。冷水は火照った肌を急速に冷やし、やがて温度を奪っていく。今の私にはそれが心地好かった。
鏡を見る。そこにはやつれた男の顔が映っていた。髪はぼさぼさで寝癖がひどく、髭も伸び放題で顔色も悪い。人前に出られるような格好ではない。
私は水で顔を洗うと、手拭いで顔を拭き、髭を剃った。
居間に戻って暫くすると、玄関の戸が開く音がした。妻が帰ってきたようである。
「ただいま帰りました」
雪絵は私の姿を認めると、少し間があってから、彼はもう一度私を呼んだ。
「ああ、お帰り」
私は雪絵にそう返したが、それは最早挨拶と呼べるような代物ではなかった。抑揚のない、まるで何かの声帯模写でもしているようだった。それでも妻は何かを察して、それ以上何も言わなかった。
妻が居間に入ってくる。手には、近所の魚屋から買ってきた秋刀魚を抱えている。私は妻の顔を見て、ああ、今日の夕飯は秋刀魚か、とぼんやり思った。いや、本当はもっと別のことを考えていたのかもしれない。だが、それが何なのかは自分ではもう解らなかった。
妻が私の向かいに座ったので、私は彼女に尋ねることにした。
「なあ、雪絵」
掠れた自分の声が頭蓋に響く。
「はい、タツさん」
「今日は何日だい?」
私がそう問うと、彼女は暫く私の顔を見つめた。
「八月十日ですよ」
そうだ。そろそろ締め切りが近い。だから厭な夢を見たのだろう。
「そうか」
私はそう云って、再び蒲団に潜り込んだ。もう何もする気にはなれなかった。妻もそれを悟ると、ただ黙って秋刀魚を焼き始めた。やがて香ばしい臭いが鼻腔を刺激したが、それでも食欲は湧いてこなかった。
暫くして、私は眠りに落ちた。目が醒めると、窓の外が青黒く染まっていた。
妻は既に隣で眠っており、ちゃぶ台の上には置き手紙があった。妻の可愛らしい文字で、「食べてくださいね」と書いてあるだけであった。
食欲は相変わらずなかったし、執筆意欲もなかったが、それでも何か食べねばならないので、おぼつかない足取りでちゃぶ台の前に座り、妻が用意した秋刀魚をつついた。まだほんのりと温かかった。
それから、私は原稿用紙に向かった。締め切りは十日後である。だが、この調子だと一作も仕上がりそうにない。いや、たとえ間に合ったとしても、読む価値などないのだから同じか──。
結局その日も何も書けなかった。ただぼうっとしている合間にも夜が更けていく。
妻の寝息を聞きながら、私は再び蒲団に潜り込んだ。
結局、一睡もできなかった。窓から差す朝日が憎らしくさえ思えた。布団のうえで横になったまま、ただ時間だけが過ぎていくのを待つだけの時間は苦痛以外の何物でもない。
妻が蒲団を畳んだので、私は起き上がった。ただ横になっただけで疲れが取れた筈もない。
「お仕事頑張ってくださいね」
妻はそう言って微笑んだ。しかし私はその言葉に対して何ら反応を示すことが出来なかったのだ。
妻は仕事へ行く前、「今日は早めに帰ってきますから」と云った。私はただそれに頷いた。
私が再び執筆を再開したのは、それから一週間が経ってからだった。結局、原稿用紙に文字が並ぶまでに、一週間かかってしまった。
その間、私は妻の顔もろくに見なかった。彼女も、それについて何も言わなかった。きっと云いたいことが沢山あった筈なのに、彼女は一言も口に出さなかったのだ。
この一週間、私と妻は一言も交わさなかった。私の生活リズムは瓦解し、食事も睡眠も別別であった。だから妻がどんな顔をしていたのかは解らないし、私が妻に対して何を思っていたのかも解らない。ただ漠然と、厭なことが頭の中を渦巻いていたことだけは覚えている。
文机の前に座り、私は一人筆を走らせていた。外は暗くなり始めていたが、妻はまだ帰ってこない。時間だけはゆっくりと過ぎていくのに、私には何一つ刻ときを告げるものはなく、ただ文字で埋まっていく原稿用紙だけが時の流れを教えてくれた。
やがて外の闇はさらに濃度を増し、私の手元の明かりだけが煌々と輝いているように見えた。その光は私を追い詰めるばかりであるのだが、それでも文字を書くのを止めるわけにはいかなかった。
まるで、何かに取り憑かれたかのような有様だった。最早、身体の限界は超えていたが、私は黙々と書き続けた。いや、書くというよりは溢れ出る感情を紙にぶつけているといった方が近いのかもしれない。原稿用紙には、自分が書いたことさえ覚えていない言葉が並んでいた。
そのとき私が書いていたものはおそらく小説などではなく──何か別のものだったのかもしれない。だが、今の私にはそれを何と呼ぶべきかは解らなかった。
どのくらい書いていたのだろう。いつの間にか、背後で戸が開く音が聞こえたような気がした。妻だろうか、と思ったがすぐに違うことに気付いた。
そして足音は私の後ろで止まった。
「関口先生、書き上がりましたか」
声の主は編集の小泉であった。
「なんだ、君か」
私は振り返らずに言った。もう小泉の顔すら忘れているような気がしたからだ。私はいつも、書き上がった原稿を編集に渡すときは決まって後ろめたさを感じるのだ。
暫くの沈黙の後、小泉は私の背中に語りかける。
「先生──ご気分はいかがですか」
「機嫌が悪いように見えるかい」
努めて冷静に答えたつもりである。
「いえ、そういう意味ではなくてですね。少し細くなったんじゃないですか、先生。お食事は摂っていらっしゃいますか」
「ああ、大丈夫だよ」
このまま原稿を渡してしまうのが嫌だったのだ。何というか、心細いのだ。自分の書いたものを自分で否定しているようで厭だった。つまりこれは──我儘だ。私は自分が随分前から精神的に疲弊していることにようやく気がついた。
「先生」と、小泉は改まって言った。
「一度ゆっくり休んだ方が──良いんじゃないですか」
私はその言葉に対して何も答えなかった。
ただ、小泉が原稿を持って帰った後も黙々と文字を埋め続けた。まるで何かを振り払うかのように、ひたすらに書いている自分がいたのである。
いつの間にか、妻は家に帰っていたようだった。その頃にはもう夕飯時で、居間からはみそ汁の良い香りがした。私はすっかり冷めきった白米だけを食べ、そしてまた原稿用紙に向かった。
結局、その晩も一睡もせずに朝を迎えた。朝の日差しがいやに眩しかったので、障子を閉め切りにした。それでも部屋の中は明るいような気がしたからだ。それから、妻が出勤しようと云う時刻になって、やっと私は筆を置いた。
「終わったんですか」
そう尋ねる妻の顔は心なしか安堵しているようであった。
「ああ──たぶん」と私は答えた。果たしてそれが私の字だったかは定かではないのだが。
「じゃあ書き上がったんですね」
そう言って妻は顔を綻ばせるが、私には既にその笑顔を真正面から見つめることは不可能なほど、憔悴しきっていたのである。
「タツさん、少し休みましょう?」
「──そうだね」
その日は久しぶりによく眠れた。
私は数週間ぶりに眩暈坂を登っていた。目眩。私の新作も同じ名前だ。だらだらと続くその坂は、まるで私の原稿そのものであるように感じられた。
「関口、君、随分と窶れたものだね。その様子じゃあ奥方にもさぞ迷惑をかけていることだろうな」
「──うん」
それは事実であったので、私はただ頷くことしかできなかった。
普段から迷惑ばかりかけているが、この数週間は実に酷かったように思う。不甲斐なさが身に沁みて、普段から傾いている姿勢がさらに傾いた気がした。
古本屋の中は、相変わらず古書の匂いで満ちている。その香りは私の乱れた精神を落ち着かせるのに十分であった。躰が日常に帰っていく。
「まあ上がって行きたまえ。茶でも出すよ」
そう云って古書肆は立ち上がった。
私はいつものように古書の山に囲まれて放心していたが、そのうち上体を起こしているのも辛くなってきて、私は座布団を枕にして寝転がった。夏の終わりの柔らかな日差しが庭に差し込んでいる。夏の終わり。あの事件の終わり。いや、終わってなどいない。終わりなどない。あのことは、私の中で続いていくのだ。
京極堂がお茶を持って台所から戻ってきた。
「ほら、飲みたまえよ」
起き上がって差し出された湯呑みを受け取り、口に含むと熱い茶が身体の中を駆け巡る。どうやら自分でも気づかぬうちに喉が渇いていたらしい。私はそれを一気に飲み干した。
ちりん、と風鈴が鳴る。居候を決め込んでいたとき、幾度となく聞いたその音に、私の意識はあのときに引き戻される。
「随分と早い時間に来たね。まだ客も来ていないぜ」
そんな私の思考を遮るように、いつもの仏頂面で、いつものように私を揶揄する。
言い返したいことも、話したいこともあるような気がするのだが、言葉が思いつかない。そうして私が失語に陥っているうちに京極堂は口を開く。
「しかし、こんなに早く君が来るとは思わなかったね。また三か月でも四か月でも顔を見せないかと思っていたよ」
「書き終わったんだよ。だから、なんとなく来てみたくなったんだ」
「原稿を落とさなかったという訳か。殊勝なことじゃないか。普段からそうして貰いたいものだね」
京極堂は笑いながら、次の茶を注いだ。
「なあ、敦っちゃんは──どうしているんだ? 元気なのか」
「あの愚妹は相変わらずさ。今日も取材に東奔西走していることだろうよ」
「そうか、ならいいんだ」
「なんだい、随分と浮かない顔じゃないか。新作に納得がいっていないのかい」
「そうじゃないんだ。ただ──僕は厭な人間だな、と思って」
「何がだ」
「今更懺悔しても仕方ないことは解っているんだけどね。それでも何かを云いたくなるんだよ」
私はそこで一旦言葉を切って茶を啜る。友人と話そうというのに、湯呑みを持つ手が微かに震える。私はどれだけ怯えているのだろう。これではまるで、これから断頭台に登る罪人のようではないか。そんな私の怯えとは裏腹に、京極堂は素っ気なく云った。
「云わなくてもいいことだってあるさ」
私は顔を上げ、座卓を挟んだ友人の仏頂面を正面に見据える。
「そうかな」
「そうだとも」
私たちの間に沈黙が訪れた。
ただ風鈴だけが鳴っていた。
気がつくと、私は塔の上にいた。
塔の周りには、一羽の鴉が旋回しながら飛んでいる。
私は彼に喰われるのだ。そう直感した。
私は鴉を視線で追いかけた。黒黒とした塊は、時折ガアと鳴いて、己が鳥であることを主張する。一瞬、鴉と目が合った気がした。
暫く経ち、ようやく鴉は私の元にやってきた。最期に彼の養分となれるのなら、幾分ましな人生になるだろう。
しかし彼は私を啄むことはなく、静かに見つめていた。その瞳は友人に似ていた。