恋は不意に

 いつの間にやら私は眠っていたようだった。目の前のスクリーンには、エンドロールが映されている。演者は誰一人として知らない。適当に選んだ映画だからだ。最後に、これまた知らない監督の名前が映し出され、場内は明るさを取り戻す。
 観客がぞろぞろと帰っていく。
 私の躰はひどく怠くて、立ち上がれそうになかった。
 再び観客が入ってきて、カラカラと回る映写機の音と共に上映が始まる。スクリーン上では、鼻筋の通った美形の男女がなにやら押し問答をしている。ありきたりな洋画だ。何度も見ているので内容は覚えてしまった。二人の危機にハラハラすることもなければ、ラストシーンの再開で涙ぐむこともない。
 私は、彼らがスクリーン上で生きているのを覗き見している気分になった。きっと物語を見聞きすることは、物語上の人物の人生を覗き見ることに他ならないのだろう。
 基督教では神が見守っているということになっているし、我が国の宗教観でもお天道様が見ているといった考え方がある。見守っていると云えば聞こえはいいが、要は監視されているのだ。私の一挙手一投足を。そう考えるとひどく息が詰まる。守られるべき存在と罰せられるべき存在がいるとすれば、私は間違いなく後者であろう。だから見られるのは恐ろしい。
 再び何度目かのエンドロールが流れ、重い腰を上げて周りの観客と共に劇場を後にする。外はすっかり暗くなっており、闇に慣れた目はいくつかの星を捉えた。昔聞いた星座の名前はとっくに忘れ、ただ星が浮いていることしか解らなかった。
 なんとなく家に帰る気になれなくて、当て所なく足を動かした。
 飲み屋の照明が私を照らす。ああ、見られてしまう。光に当たってはいけない。急いで路地裏へと逃げ込む。そこは塵が落ちていたり、薄汚れた野良猫が寝そべっていたりしていて雑然としていた。野良猫が私のことを睨みつける。なんだか後ろめたくなって私は目をそらした。
 再び表の通りに出る。
 派手な着物を着た女が、店先に立って通行人に声をかけている。中には茣蓙ござを敷いただけの場所で客を引く者も居る。ここはおそらくそういう場所だ。私はこういうものにとんと興味がないので、逃げるように足早に歩く。
 人の波の中、ふと見知った顔を見つけた。榎木津だ。学生時代から、女子を侍らせてへらへらするのが好きだった榎木津がここに居るのは、なんら不思議ではない。なんとなく気まずくなって、私は顔をそらす。しかし些細な抵抗も虚しく、榎木津がこちらに駆け寄ってきた。
「関君がこんな場所に居るなんて珍しいじゃないか。ここで会ったのも何かの縁だ、僕のおすすめの店を教えてやろう」
「ぼ、僕はたまたまここに来てしまっただけで、目的があった訳じゃ──」
「なんだ、そうか。ところで映画は面白かったかい」
「え? ああ、いや、そうでもなかったかな。それよりも何故それを知っているんだい」
「何でもいいじゃないか。それより関君、ここからなら神保町のほうが近い。僕のところに泊まっていくといい。よしそうしよう」
 榎木津は私の腕を引いて歩き出す。
 聞けば、とうに終電は過ぎている時間であった。突拍子もない提案であったが、図らずも助けられた形になる。
 暫く歩いて、榎木津ビルヂングと書かれた建物に着いた。昼間は活気のあるそこも、夜の闇に飲まれてしんと静まり返っていた。階段に二人の靴音だけが響く。
 薔薇十字探偵社と書かれた戸を開けば、やはり暗闇が出迎える。私はどこになにがあるのか解らず戦々恐々としながら歩みを進めたが、榎木津は慣れた様子ですたすたと自分の部屋に向かっていく。弱視である榎木津にとっては、暗いことはさほど問題にはならないのかもしれない。
 私はなんとか来客用のソファに辿り着き、そこに横になろうとした。
「関君、こっちに来なさい」
 背後のライトに照らされた榎木津の顔はよく見えなかった。
 隣の部屋から漏れる明かりを頼りに、私は榎木津の元へ向かう。
 居住スペースには大人が二人寝られそうなほど大きなベッドが備え付けられていた。まさか添い寝をしようということだろうか。それよりは、多少寒くてもソファで寝るほうが落ち着ける。
 強引に寝かされると思って身構えていたが、予想に反して榎木津は静かに私のことを見つめてくる。陶器のように白い肌、ライトの光を受けてきらきらと輝く髪、宝石のように艶艶とした鳶色の瞳。いつ見てもその顔は整っていてうつくしい。
「好きだなあ」
 榎木津が、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。綺麗な目が見開かれる。
 ──今、私はなんと云った?
「あ、そ、そのですね、今のは違って」
「違うのか」
 今度は榎木津が悲しげな表情になる。私は混乱した。
いや、違うという訳でもなくて──」
「関君、僕は君が好きだ。君も僕が好きなんだろう? 付き合わないかい。いや、付き合おう。そうしよう」
 まるで今晩の献立を決めるかのような軽さだ。。
「つ、付き合うって、僕と榎さんがですか」
「関口、僕に接吻されるのは厭かい?」
 囁くように榎木津は私に訊ねる。
「厭、ではない。ないけれど──」
 夜の闇のように、不安がじりじりと私を苛む。
「──だ、駄目だ。そんなことをしたら、きっと榎さんをけがしてしまう」
「そんなに怯えなくていい。神たる僕が君を求めているんだぞ? 素直に従っていなさい」
 うつくしい瞳が、私を求めている。その事実にくらくらした。思わず私は榎木津から目が離せなくなる。神は神でも、榎木津に見られているのなら大丈夫だと思えた。
「え、榎さんは女の子が好きなんじゃなかったのかい」
「それは間違いない。けど関君のことも好きだ。それで十分じゃないか」
 榎木津の顔が私に近づいてくる。それに合わせて私の心拍数は上昇する。
 そっと唇が落ちてくる。優しく触れるだけの口づけ。柔らかな唇の感触と温もりが伝わってくる。そんな接吻を幾度となく繰り返した。
「今日はこれでおしまいだ」
 榎木津は微笑んで私の頭を優しく撫でた。
 榎木津がベッドに横になり、私もその隣で横になる。
「そんなに緊張するな」
 榎木津は私が落ち着くまで頭を撫で続けた。そして緊張が解れた頃にはすっかり眠くなっており、私はそのまま意識を手放した。

 あれから数日経った日のことである。
 玄関の戸を叩く音がした。鳥口辺りなら居留守を決め込もう。
「先生、いらっしゃいますかい」
 予想に反して、玄関の向こうにいるのは寅吉であった。
「うちの先生がお呼びですよ。なんでも、大切な話があるんですって。聞かれちゃまずいからって僕は外で待っているようにと云われたんでさあ」
「今行くよ」
 もちろんそれは方便であろう。私は急いで身支度を整え、神保町へと向かった。
「さて関君、前回の続きといこうじゃないか」
 着くなり榎木津は私を自室に招き入れ、ベッドに座らせた。そして私の|頤《おとがい》にそっと手を添え、上を向かせた。
 ──ああ、口づけされる。
 行為の予感に、私は顔が熱くなるのを感じた。
 間近で見る榎木津の顔は、やはりうつくしかった。長い睫毛が揺れて、瞼が薄く閉じられる。それに合わせて私も目を閉じた。
 昨日と同じように触れるだけの口づけをしたあと、榎木津の舌が伺いを立てるように私の唇を舐める。それに応えて唇を開けば、そっと榎木津の舌が侵入してきた。撫でるような舌での愛撫に私は翻弄される。てっきり荒々しい接吻をしてくると思っていたが、この接吻はおそらく上手い類のものなのだろう。口蓋を優しくなぞられれば、背中にぞわぞわと快感が走り、思わず鼻にかかった甘い声が漏れる。
 長い口づけを終えて唇が離れていく。名残惜しむように、唇と唇とを唾液が繋いだ。
 肩で息をする私を宥めるように、榎木津は私の背中を擦る。心地好さに目を細めれば、額に唇が降ってきた。

 その後、私は定期的に探偵社に赴くようになり、今日も榎木津のベッドの上に居た。
 部屋に榎木津の姿はなかったが、約束の日なのでそのうち現れるだろう。
「関君、今日はデートに行こうじゃないか」
「で、でぇと、ですか」
「さあ、降りた降りた!」
 榎木津に促され、私は階段を降りて玄関に向かう。そこには空色のフォルクスワーゲンタイプワンが停まっていた。榎木津は助手席のドアを開け、私をそこに座らせる。榎木津の運転はいつも荒くて肝をつぶすことになるため、少々不安を感じる。
「今日は江ノ島まで行くぞ、関君」
「江ノ島ですか。そういえばあそこは野良猫が多いって聞いたなあ」
「ねこちゃんが居るのか! なおさら行かねばならないじゃないか」
 今日の榎木津の運転は、今までのが嘘のように実に丁寧であった。そのおかげで、ゆったりと景色を眺めることができた。普段からこうしてほしいものなのだが。
 江ノ島は観光客で賑わっていた。地図を見ながら観光スポットを巡る。
 まず行ったのは辺津宮という神社だ。茅の輪をくぐり、大きな巾着袋のある賽銭箱に五円玉を投げ入れる。
「ここは恋愛成就の祈願もできるんですね」
「僕らには必要ないな!」
「そ、それもそうか」
 次に訪れたのは中津宮という、朱色が鮮やかな神社である。ここは美人祈願もあるらしいが、やはり榎木津には必要がないもので一寸可笑しかった。
 最後は奥津宮。拝殿天井には、どこから見てもこちらを睨んでいるように見える八方睨みの亀が描かれており、なかなか面白い場所であつた。他にも神社が沢山あり、それぞれ見て回った。ここに中禅寺が居れば、何かしらの蘊蓄が聞けるかもしれない。
「こら、関君。僕のことも見なさい」
 そんな私の考えを見透かすように、榎木津が私の顔を覗き込んでくる。
「す、すまない」
 未だに榎木津に見つめられるのは慣れず、毎回私は赤面してしまう。そんな私を見て満足したらしい榎木津は口角を上げ、私の手を取った。
「これでよし!」
 榎木津は私の手と指を絡ませ合い、所謂恋人繋ぎをした。
「榎さん、恥ずかしいですよ」
「何を恥ずかしがることがある。何事も堂々としていれば恥ずかしいことなど何もない!」
 その後は名物のたこせんべいを食べたり、野良猫を追いかけたりと自由に過ごした。
 気がつけばすっかり夕方になり、私は東京へと戻った。

 私は久しぶりに中禅寺の元を訪れていた。江ノ島での土産話と神社の蘊蓄を聞きに行くためだ。勝手知ったる、と云うように玄関の戸を開けて上がりこむ。どうやら先客が居たようで、何やら話し声が聞こえてきた。よく聞けば、それは榎木津の声であった。
「──榎さん、関口をどうするつもりですか」
「どうもこうも、好き合ってる者同士なんだから当然のことをしているまでだ。なんだ、嫉妬でもしているのか?」
「そんなのじゃないですよ。ただ僕は、あんたが関口に無理をさせないかを心配しているだけだ」
「随分と過保護だなあ。僕も関君も大人なんだ、分別くらいつくさ。なあ、関君」
 意図せず立ち聞きの形になってしまい、完全に入るタイミングを逃してしまったところに声をかけられ、私は心臓が止まるかと思った。
「すまない、立ち聞きするつもりはなかったんだが」
「丁度いい、関口君。君からも話を聞こう」
 仏頂面をした中禅寺がこちらを見る。榎木津は意に介さず、隣に座りなさいと畳をぱしぱしと叩く。それに従って座れば、中禅寺の顔は数段凶悪になった。
「やっぱり嫉妬じゃないか」
「だから、そうじゃないと云っているでしょう」
「そうムキになるのが何よりの証拠だろう。こんなぷりぷり怒ってちゃますます関君が離れていくんじゃないか?」
 榎木津は私の頭を柔らかく撫でる。いつも口づけるときも頭を撫でられるから、そのことを思い出して思わず耳まで熱くなる。
「とにかく、関君は僕のものだ」
「関口は誰のものでもないですよ」
「なんとでも云うといいさ。こんな仏頂面は置いてまたデートにでも行こうじゃないか。なんでも、新しく開店した甘味処が人気らしいぞ。今日はそこに行こう!」
 私は榎木津に手を引かれて中禅寺の家を後にした。
 電車に揺られて新宿へ向かう。ここらへんは新たに歓楽街が出来始めている。
 私は先程の中禅寺の様子を思い出して気も漫そぞろになっていた。それに気がついた榎木津が私を路地裏に引き込む。
「今だけは僕のことを考えてくれないか」
 道から私のことが見えないように背を向けて、榎木津はそっと口づける。その瞳には切実さが滲んでいた。
 改めて甘味処に這入り、榎木津はあんみつを、私は白玉を頼んだ。
 程なくしてそれは運ばれてきた。
「関君、ほら」
 正面に座った榎木津があんみつが乗ったスプーンを私に差し出す。私は少し躊躇ったあと、それに口をつけた。
「どうだい」
「うん、おいしいよ」
「それはよかった」
 榎木津が目を細めて微笑む。たったそれだけで私の胸は高鳴った。
 私の頼んだ白玉も、もちもちしていてとても美味しかった。
「榎さん、これ──」
 私も榎木津に倣ってスプーンを差し出す。すると榎木津は目を輝かせてそれをぱくりと食べた。
「ふふ、関君と食べるとさらに美味しいな」
 榎木津が嬉しそうだと私も嬉しい。こんな気持ちは久しぶりだった。
 店を出て駅に着く。ここは丁度、中野と神保町との中間だ。
「それじゃあ関君、また今度」
 私はさようならが言えず、ただ立ち竦んだ。離れたくない。まだ一緒に居たい。そんな気持ちが溢れて止まない。私は無言で榎木津の服の裾を引っ張った。
「──一緒に来るかい?」
 榎木津の優しい声が響く。私は静かに頷いた。そして二人で神保町の方へ向かう電車に乗り込んだ。
 探偵社に着く頃にはすっかり日が暮れていた。
「今日は泊まっていきなさい」
 部屋に入るなり、榎木津は私を背後から抱きしめる。
「榎さ、ん──」
 榎木津は私の頭に顔を乗せ、すうと息を吸った。
「──や、やめ、臭いでしょう」
「そんなことはないさ。関君の匂いがして落ち着く。さあ、ベッドに行こう」
 私は榎木津に抱きすくめられながらベッドに横になる。背中から伝わる温もりに意識が溶かされ、私は眠りに落ちた。