入れ子の中
私はだらだらと続く坂道を登っていた。
ここからは相変わらず油土塀しか見えない。
坂の上、京極堂があるはずの場所にはごく普通の一軒家しかなかった。
胸騒ぎを覚えながら玄関の戸を叩く。
暫くして千鶴子が出迎えてくれた。
「京極堂はどうしたんだい、いや、そもそも──」
「京極堂。懐かしい響きですわね」
厭な予感に背筋が寒くなった。
千鶴子は淋しげに微笑む。
「巽さん、秋彦さんはもう──」
この世には居ない、とでも云うのか。そんなはずはない。そんなはずは──
ぼんやりと記憶が蘇ってくる。憑き物落としの最中、気の狂った男が黒衣の男に刃物を突き立てたのだ。黒衣の男は呻き、崩れ落ちる。結界が解ける。
そこは随分と鬱蒼とした山奥だったから、救護は遅れてやってきた。その時にはもう、京極堂は──
「すまない。なぜだろう、こんな大事なことを忘れるはずはないのに、すっかり忘れていたよ」
「巽さんの眼の前で起こったことですもの、ショックで忘れてしまうこともあるでしょう」
「そうかも、しれないな。すまない、変なことを訊いてしまって」
「いいえ、懐かしい気分になってむしろ善かったですわ」
「そう云って貰えると助かるよ」
千鶴子に上がっていくよう勧められたが、なんだか悪い気がして辞退した。
私は悄然としながら坂を下る。そうだ。京極堂は、中禅寺は、友人はもう居ない。居ないのだ。
目眩がして眼の前が暗くなった。
眼の前には畳があった。
身じろぎすれば、蒲団が躰からずり落ちる。
厭な夢を視た。
あれは慥かに夢だったと、嘘だったと確認したくて、私は朝食も摂らずに家から飛び出した。
躓きながら坂道を登る。こんなに焦っているのは何時ぶりだろうか。走って行きたいが、家を出てすぐに息が切れてそれは叶わなかった。
坂の上にはいつもの看板が掲げられ、店の中には所狭しと本が並んでいる。
「京極堂!」
私は転がるように店に這入る。
「何でしょうか」
「おい、なんでそんなに余所余所しいんだい」
古書肆は眉を顰める。
「こちらとしては、そちらが馴れ馴れしい事のほうが気になりますがね」
どういうことだ。私は、私達は慥かに友人のはず。友人のはずだ。知人ですらないなんて、そんなこと。
古書肆の顔をまじまじと見れば、そこには見知らぬ男が帳場に坐っていた。
そうだ、思い出した。私の友人は今も国語教師を続けている。だからこんなところに居るはずはないのだ。
「き、気が動転していたみたいだ。邪魔したね」
「そうですか。ぜひ今度はお客としていらしてくださいね」
私は再び悄然としながら京極堂を後にすることとなった。振り返れば、そこには知らぬ店名の看板が掲げてあった。
あるはずの記憶と無いはずの記憶が錯綜する。
もはや夢か現かも解らぬ京極堂の言葉を思い出す。
──我我は誰一人真実の世界を見たり、聞いたりすることは出来ないんだ。
──脳の選んだ、謂わば偏った僅かな情報のみを知覚しているだけなんだ。
我我は現実と仮想現実の区別がつかない。
ならば、現実と仮想現実の差は何だ。
夢と現実の差は何だ。
私はどこに居る。
私は、一体──
くらりと目眩がした。
頬に伝わる畳の感触で目が醒めた。今度は夢だろうか、それとも現実か。
居間に出る。やけに静かだ。
けれどもそんなことを気にしている場合はではない。一刻も早く京極堂、いや、中禅寺か、とにかく友人に会わなければ。
どこに向かったものか。学校か?
しかしそこに居なければ、私はただの不審者だ。やはりここは友人の家を目指そう。
もう三度目だ。三度目の正直といってほしい。そう思いながら坂を登る。
急いで母屋の戸を叩く。暫くして、今度は友人が出迎えてくれた。
「よかった、中禅寺、居たんだな」
「何だい、その言い草は。居るに決まっているだろう」
安心して思わず溜息をつく。ようやく私の知っている友人に出会えた。なんだか何年か振りの再会のようである。
そういえば玄関には友人の下駄しかなかった。千鶴子はどうしたのだろうか。
「なあ中禅寺、千鶴子さんはどうしたんだい」
「誰だい、それは」
まただ。またこれだ。今度もまた夢だと云うのか。それとも私の記憶が間違っているのか。
「それよりも関口君──」
座敷に着くなり、中禅寺は艶めかしい手付きで私の頬を撫でる。
私の知る中禅寺はそんなことはしない。しないはずだ。それなのに、胸が高鳴ってその先を期待する私も居た。
「──暫くぶりじゃないか。今日は手加減できそうにないぜ」
何を、それは聞かなくてもおおよそ検討がついた。
中禅寺は私の頭を優しく撫でる。そして後頭部に手を添え、柔らかく口づけをした。
圧倒的な違和感と圧倒的な安心感がぶつかり合う。どちらが本当か?
逡巡している間に、中禅寺は私の腔内に舌を入れる。歯列をなぞり、舌を絡め合う。その感覚に背筋がぞくりとした。嫌悪感か、興奮か、もはや判然としなかった。
「関口君」
中禅寺は見たこともない顔で微笑む。頬が高潮している。ああ、こんな顔もするのか。
「なあ、中禅寺──」
上目がちに中禅寺の顔を覗けば、続きを強請っているように見えたらしく、もう一度深い口づけをしながら私を畳の上に押し倒した。
中禅寺はシャツの上から私の胸の突起を爪でかりかりと刺激する。感じるはずのないそこは、しかし快感を拾っていた。ああ、もっと触って欲しい。いや、違う。こんなのは間違っている。それでも、それでも──
暑さを感じて目が醒めた。背中には中禅寺の体温がある。抱きしめられているのだ。
結局、私達は肌を重ねた。
最中の中禅寺はとても優しかった。頭を撫で、口づけを雨のように降らせ、ぬるま湯のような快感を私に与えた。
私が声を抑えれば、聞かせてくれと甘い声で云う。
中禅寺は愛おしいものを見るような目で私を見つめた。それは私を堪らなく幸せな気分にさせた。こんなのは間違っているはずなのに、ひどく心地好い。ずっとこうしていたいと願ってしまう。私は友人の中禅寺に会いたいはずなのに。
肌に張り付いたシャツが気持ち悪くて身じろぎすれば、中禅寺が目覚めたようで、おはようと云いながら頬に口づけを落とす。
「中禅寺。これは夢かい、それとも現実かい」
「どちらでも善いじゃないか」
そう云いながら中禅寺は私の胸を撫でる。たったそれだけで、私は熱を取り戻してしまった。
違う、違う!
こんなのは違う。
私は拒絶するように勢いよく立ち上がる。重力によって頭の血液が巡り、くらりと目眩がした。
私は目を開ける。そこは座敷だった。
さっきの世界か、それともまた別の夢か、はたまた現実か。
のっそりと起き上がれば、仏頂面の中禅寺がそこに居た。
「もう来るなと言ったはずだが」
「何のことだ」
「関口、君と話すことはもう無いよ」
そう云って、中禅寺は店の方へと向かっていった。
私は後を追いかける。
「君がいると仕事にならない」
「なぜだ京極堂、僕が何かしたってのかい」
「本当に覚えていないのか? 君は本当に胡乱な奴だな」
中禅寺は立ち止まり、嫌悪感を孕んだ目で私を睨みつける。ここまで中禅寺を遠くに感じたことは初めてだった。じくりと胸が痛む。
どうやら私は取り返しのつかない過ちを犯してしまったらしい。
引き止める声は出なかった。
嗚呼、目眩がする。
もう何度目かも解らぬ目覚め。見慣れた天井。しかしいつもより蒲団が薄い気がする。
起き上がれば、そこは旧制高校の寮であった。
困惑する意識とは裏腹に、躰は習慣を繰り返すように制服に着替える。
戸を開ければ中禅寺がそこに居た。
「早くしないと授業に遅れるぜ」
私はとりあえず中禅寺の背を追いかけた。
食堂で朝食を済ませる。
「なあ中禅寺、今日の授業は何だったかな」
「君の健忘は激しいと常々思っていたが、とうとうここまで来たか」
とは云いつつ、丁寧に今日使う教科書を教えてくれた。
上の空で授業をやり過ごし、放課後を迎える。
私は中禅寺の部屋を訪ねた。
「なあ、中禅寺」
「なんだい」
「僕の中身が本当は三十で、今は夢を見ているようなものだと云ったら笑うかい」
「君にしては面白い冗句だな」
やはりそうなるよな。私だって中禅寺がそんなことを云い出したら笑ってしまうだろう。
「ならば君は僕らの未来を識っているということだな。例えば僕はどうなっているんだい」
「学校の教師を勤めて、それを辞めたあとは古本屋で、神主で、そして拝み屋をやっている」
「随分と荒唐無稽な話だな」
中禅寺は可笑しそうに笑った。
「本当のことさ」
「まあいいや、それで君はどうなるんだい」
「僕は粘菌の研究をしたあと、文士に転向するんだ」
「それもまた突飛な話だね。しかし君の著作か、是非読んでみたいものだ」
「そして榎さんは探偵になっている」
「それは適任だろうな」
私としては話のオチのつもりだったのだが、何故か中禅寺は一番納得していた。
「邪魔したね。今日はもう戻るよ」
私は立ち上がる。若い躰は思っているよりもすんなりと動くものだ。
「関口君、少し待っていてくれ」
そう云うと中禅寺は文机に向かって紙に一文字書いた。それは獏であった。
「獏は悪夢を食べてくれる妖怪だ。本来は宝船の帆に書いて使うものだが、何もないよりはましだろう。これを枕の下に敷くといい」
「あ、ありがとう、中禅寺」
一応真に受けてくれていたのか。それとも私の脳が見せている都合の善い展開なのか。それは解らぬが、それでも嬉しいことに違いはなかった。
云われた通り、紙を枕の下に敷いて横になる。次に目覚めたら、いつもの友人の顔を見られるように願いながら。
「タツさん、タツさん」
妻の声がする。目を開ければ、心配そうな顔をした雪絵がそこに居た。
「随分と魘されていたんですよ」
「起こしてくれて助かったよ」
なんとなく、ここは現実のような気がした。
私は朝食もそこそこに、急いで京極堂へと向かった。
だらだらと続く坂道を歩く。急ぎたいのに、でこぼことした地面がそれを許さない。はやく友人の顔が見たい。
やっとの思いで店の前に辿り着く。京極堂と書かれた看板があった。それだけで少し安心する。
店の中を覗く。帳場には見慣れた古書肆が、我が物顔で売り物の本を読んでいた。
「──中禅寺」
私は恐る恐る声をかける。
古書肆はゆっくりと顔を上げる。
「なんだい、関口君」
「ここは本当に現実か?」
「ああ、現実だとも。この僕が保証する」
友人はひどく真面目な顔でそう云った。
安心感から目眩がした。
ふらついて帳場の机に手をつく。
間近で見る京極堂の顔は、いつもの仏頂面をした京極堂だった。
「京極堂、僕は、長い夢を見ていたよ」
「そうかい。どんな夢だい」
「夢の中で何度も何度も目が醒めるんだ。その度に君が居たり居なかったりして、それで、僕は──」
「もうこれ以上目覚めることはないよ」
やけにきっぱりと京極堂は云う。
「本当かな」
「僕の云うことが信じられないかい」
「僕自身の脳が信じられないのさ」
「そうだな。脳というのは実に胡乱なものさ──」
京極堂は立ち上がる。
「──それでもここは現実だ。あの夏のことは、忘れていないだろう?」
あの夏。モノクロオムの、赤く染まった、あの夏。悲しい事件だった。忘れるものか。
間違いなくここは現実だ。
──嗚呼、酷く疲れた。