海と空

 夕時のことである。秋刀魚の塩焼きを雪絵と共に食べながら、魚に思いを馳せた。  魚はなんとも自由そうだ。横だけではなく、縦にも縦横無尽に動けるのだ。縦に動けるとはどんな心地であろうか。海の水に浸りながら、舞うように泳ぎ回る。水面に差す日光を浴びて輝く鱗。もし魚になれるなら、深く、深く潜っていきたい。そう思った。  縦に動ける、と云うなら鳥もそうだ。空を思いのままに飛び回る様は優雅である。翼を思い切り広げ、羽ばたく。伸びやかに滑空する。風を切る。もし鳥になれるなら、高く、高く飛び上がりたい。そう思った。  魚と鳥は似ていると云っても、水を弾く羽は、海の中を拒絶するようでもある。生物の起源は海中のプランクトンだと云う。ならば、鳥は海ではなく空を選んだのだろう。誰もいない空を。あるいは、太陽に憧れたのかもしれない。あの陽の光を目指して飛び上がる魚を想像した。  空にも海にも道はない。遮るものもない。  私なんかは不安から目眩を起こしそうだ。  横だけではなく縦に動く様は、まるで京極堂の思考のようだ。思いもよらない点と点とを線で繋ぎ、図形を描き出す。その手腕によって、我々はふわふわとした曖昧な縦から、地面に足をつけることができるのだ。  私は地べたを横に動く。只管ひたすら横に動く。そうすればいくらか不安は和らぐ。縛られているからこその安心。それでも時折、目眩がする。地面は私にとっては広大すぎる。だから、匣に、檻に、籠もってしまいたくなる。  それを京極堂は、榎木津は、妻は、私に関わろうとする全ての人は許さない。匣から引きずり出し、檻を壊し、此岸に引き止める。  だから私は魚にも鳥にも成れはしない。ただひとりの、ちっぽけな人間だ── 「タツさん、手が止まってますよ」 「ああ、悪い」 「ふふ、また考え事ですか」  茶碗を手に取り、再び秋刀魚をつついた。