神隠し
京極堂がいつものように本を読んでいると、雪絵が青い顔をして訪ねてきた。
「あの、タツさんはここにはいらっしゃらない?」
「関口君はうちには来ていないが、何かあったのかね」
「それが、一昨日から帰ってこないんです」
「出不精の関口にしては珍しい話だが、どこかに泊まっているんじゃないのか」
「そうでしょうか──」
雪絵は変わらず不安げな表情をしている。
「たしかに、妙と云えば妙な話だ。何か手がかりは」
「私がお買い物から帰ってきたときには、もう居なかったんです。ですから何も」
京極堂は顎を擦りながら思案する。しかし手がかりがないのでは探しようもない。
ふと京極堂の脳裏にある日の記憶が蘇る。
「なあ京極堂。神隠しの伝承にはどんなものがあるんだい」
「なんだい藪から棒に。今度は行方不明者の関わる事件か何かかね」
京極堂は本から顔をあげて顔を顰める。
「いや、そうじゃないんだ。単なる興味本位というかだな」
やや俯いて関口はそう言った。
「そうか。神隠しは天狗隠しとも云ってだな──」
思えば、このときがすべての始まりだった。
ひとまず探偵社やら木場やらに電話をかけるも、揃って関口のことは分からないと言う。
普段は妖怪なんか存在しないなどと抜かしている関口のやつが、神隠しについて訊いてくるという時点で訝しむべきであったのだ。
そのとき話したのは、呼ばわり山──現在の今熊山──での神隠しの伝承だ。あれは子供が神隠しに遭った場合の話だが、可能性はある。雪絵に心当たりの場所を告げ、遠いからひとりで探しに行く旨を伝え、急ぎ列車に飛び乗った。
そこからタクシーを捕まえ、目的の今熊山へと向かう。
山に着き、とりあえず登山道を行きながら辺りを見渡す。
どこを見ても木、木、木。
鬱蒼とした森である。
曇り空も手伝って薄暗かった。
一度道から逸れれば、あっという間に迷子になりそうだ。
登山道を登って降りたが、人影も手がかりも見つけられなかった。無論、登山道を辿ったところで見つけられるとも思ってはいなかったが。
しかし無情にも日は傾き、これ以上の捜索は困難であった。
近くの宿に空室があったので、そこに泊まることにした。
宿の電話を借りて自宅にかけるも、まだ帰ってきたとは聞いていないと千鶴子は言う。全く、あの男はどこまで迷惑をかければ気がすむのだろうか。
布団で横になりながら、京極堂は悔いていた。自分がいながらなぜ防げなかったのか。兆候はなかったのか。見逃したのか。あのときの関口の様子はどうだった。顔色は。声色は。
しかし後ろばかり向いていても仕方がない。明日に備えて眠らなければ。
翌朝、京極堂は目覚めるとすぐに支度を済ませ、再び山へ向かった。
今度は登山道から逸れた獣道を歩く。足元が悪く、何度も躓きそうになった。
「関口君、居るなら返事をしたまえ」
京極堂の声は虚しく木々の間に消えていく。
ここに居るのか、それとも別の場所なのか。焦燥感が募る。関東一帯で云えば、千葉県にある八幡の藪知らずも有名だ。そちらの可能性だってある。
引き返すべきか、このまま捜索を続けるべきか。
──あるいは本当に神隠しに遭ったのか。
今回ばかりは警察の出番かもしれない。素人がひとりで探したところで限界がある。
獣道はどこまでも続く。来た道順は覚えているが、このまま際限がなければ戻るのが困難になりそうだ。
一度引き返すか、このまま進むか。
悩みながら歩を進めていると、少し開けた空間に出た。
そこには、岩に腰掛けて呆然としている関口が居た。
「関口君」
呼びかけても返答はない。
「関口、関口君。返事をしたまえ」
肩を揺さぶっても、関口の目は虚ろなままだった。
関口を背負って宿に戻り、女将に頼み込んで粥を作ってもらう。察するに、ここ数日なにも口にしていないだろう。
持ってきてもらった蒲団に関口を寝かせる。
京極堂は関口を見遣る。隈の濃いその寝顔はなんとも苦しげであった。唇の色もひどく悪い。こんな顔を見せられては説教をする気も失せる。今度は何を思い詰めたのか。それとも考えなしなのか。それは京極堂には分からぬことであった。
この男は、普段はおどおどして常識人ぶっているわりに、急に突飛なことをしでかすことがままある。今回のそれは突飛が過ぎるが。
再び電話を借り、発見の報を入れる。京極堂の家に泊まっていた雪絵に知らせれば、涙ながらにありがとうございます、と言った。
その日はそのまま目覚めなかった。
太陽が昇り、朝食を済ませた京極堂は隣で眠ったままの関口を眺めていた。こいつはいつまで寝ているつもりだろうか。このまま目覚めないつもりではないのか、とさえ思ってしまう。そんなことはないのだが。
重病患者を見舞うように、関口の手を取って手の甲を撫でる。曲がりなりにも文士の関口だ、ペンだこができている。関口にしてはひどくひんやりとした手を温めるように包み込む。
「──ああ、京極堂か」
目覚めた関口は開口一番、まるで街中でばったりあったかの如く言う。
「関口、なぜこんな馬鹿な真似をしたんだ」
「神隠しでこの世を去れるのなら、どんなに楽だろうと思ってね」
状況にそぐわず、関口はへらりと笑う。
「──馬鹿者が」
安堵と怒りが同時に込み上げ、京極堂はそれしか言えなかった。
粥を食べたあと、関口は再び倒れるように眠った。普段から家に籠もっている関口があの獣道を登ったあとに断食していたのだ、体力が消耗していて当然である。
猫のように丸まりながら眠るその躰は、幾分薄くなったように感じられる。もしかすると、失踪する前から碌に食事を摂っていなかったのかもしれぬ。
溜息をつき、手慰みに煙草を取り出して咥える。火はつけなかった。
昼を過ぎて、部屋が茜色に染まる頃、関口はようやく目を覚ました。
「やっと起きたか」
「──どのくらい眠っていたのかな」
「半日ほどだね」
「そうか」
それだけ言って、関口は再び目を閉じた。
「寝るのは後にしたまえ。何か口にしなければ躰が休まらないぞ」
「しかし、ひどく眠いんだ」
「いいから起きてるんだ。また粥を作ってもらうから、それまで待っているんだ。なんなら叩き起こしてでも食わせてやる」
京極堂は部屋を後にする。
粥を手にして戻れば、案の定関口は眠っていた。
「関口君、起きたまえ」
返事はない。
軽く頬を叩く。肩を叩く。てこでも起きそうにない。
起こすのを諦め、窓際に座って煙草に火をつけた。この部屋で、紫煙だけが動いている。
「すまない、京極堂」
一瞬寝言かと思われたそれは、しかし確実に京極堂に向けられた言葉だった。
「それは君の細君に言うべき言葉だろう」
「それでも、君にも伝えなければならないと思って」
「とにかく、謝罪をする元気があるのなら飯を食うことだな」
ゆっくりと蒲団から這い出て、関口はちびちびと粥を喰らう。そして食べ終わったら再び眠りに就いた。
もう少し関口が恢復してからにしたかったが、宿代も嵩むので翌朝帰ることにした。
電車を乗り継ぎ、関口を家に送り届ける。
その日はそのまま、京極堂は帰宅した。
数日経ったあと、京極堂は関口の家を訪ねた。
「やあ、いらっしゃい」
「元気そうでなによりだよ、関口センセイ」
「うう、面目ない」
ちゃぶ台を挟んで向かい合う。
「動機を聞かせてもらおうか」
「これじゃあまるで取り調べじゃないか」
「そうだ、これは取り調べだよ。君の行動は最悪だ。罪に値するね」
「す、すまない。ただ──」
京極堂は静かにその先の言葉を待った。
「──ただ、そのときはそれが最善だと思ったんだ。僕が居なくなれば、僕が居なければ、もっとずっと、全てが上手くいくんじゃないかって。それに、もうこれ以上はもう無理だったんだ。無理だったんだよ」
そう語る関口の瞳は深い海よりも昏かった。
関口の鬱病は関口の自意識を蝕む。きっと失踪前日も不安定だったのだろう。
「こんなに迷惑をかけるくらいなら、こんなことしなければよかったと、今はそう思っているよ」
「本当だな?」
「本当だとも」
そこで言葉は途切れた。タイミングを見計らったように雪絵が茶を出す。
「そういえば、いつだったか僕が迷子になったときがあったよな」
「ああ、榎さんとの旅行先での話だな。あのときも肝が冷えたぜ。今回はその比じゃなかったがな」
「と、とにかくだな、あのときも僕を見つけてくれたのは京極堂、君だったなと思ってさ」
「そうだったな」
「ありがとう、僕を見つけてくれて」
関口が真っ直ぐと京極堂を見据える。その顔は幾分明るかった。
「もう二度とこんな真似はするなよ。居るよりも居ないほうがずっと迷惑だ」
「そうか。そうか──」
関口は噛みしめるようにそう呟いた。
後日、関口は手土産を持って京極堂の元へ訪れた。なんでも、最近話題の洋菓子店のクッキーだとかなんとか。千鶴子がいれば菓子に合うようにコーヒーでも出してやれたが、生憎不在でいつもの茶ぐらいしか出すものがなかった。
「そ、その、き、京極堂」
「なんだいその吃り具合は。告白でもしようってのかい」
「茶化さないでくれよ。ぼ、僕は、なんと謝罪をすればいいのか、分からなくて、だから──」
「もう過ぎたことだ。気にするな」
「しかしだな」
「じゃあなんだ、君にも分かるように話してやればいいのかい。神隠しは人さらいの類であって、そんなものは存在せず、それに縋るなど愚かなことだと、こう言えば満足かね」
「──すまない」
京極堂は溜息をつきながら後頭部をガシガシと掻く。
「君から聞きたいのはそんな言葉じゃあないんだがね」
「じゃあ、なんて言えば」
「それは自分で考えることだな」
関口は困り果てたように眉を下げる。平素から情けない顔をしているというのに、これでは情けなさ過ぎて涙が出てきそうだ。
「関口、僕はね──」
「なんだい?」
「──いや、なんでもないよ。」
これは言ってはならない気がした。君のことが大切だと。これは重大な答えだ。関口本人が気がつかなければ意味がない。だからヒントは徹底的に隠す。友人ではなく知人と呼ぶ。以前からそうしてきたではないか。今更言ってしまったら、それは、それこそ──
「とにかく、これからは妙な行動は慎みたまえ」
「肝に銘じるよ」
そう言って関口は申し訳無さそうに笑った。
関口は変な男だ。自分のことをおざなりにするくせ、人一倍繊細だ。だから、関口の側にいる人間は何かと世話を焼きたくなってしまう。そういう魔力めいたものを持っている。
そんな魔力にあてられて、なんだかんだ支えてやりたくなる。赦してしまいたくなるのだ。
それでも、目の前から消えてしまわないように、彼岸へ惹かれないように、こちらに引き止めなければならないのだ。
──できることなら、自分の手で。
「京極堂、これ、すごく旨いぞ」
繊細で、それでいて鈍感な男はクッキーの旨さに心を奪われたようだった。
そう、それでいい。それでよかった。
あとはただ見守るしかない。そして境界でふらふらとしている関口を繋ぎ止める。それが京極堂の役目で、責任であった。