憂鬱と紫陽花

 こうも雨が続くと寮に籠もることになり、思考も内へ内へと向かっていく。空気がじめじめしているのに合わせるかの如く、気分までじめじめとしてくる。
 私は何をするでもなく、窓の外を眺めていた。
 ちょうどここからは紫陽花が見える。紫陽花は、長雨に負けじと美しい青を見せていた。
 どこぞで聞いた紫陽花の花言葉を思い出す。冷淡、知的、神秘的。なんだか中禅寺みたいだな、と思った。
 屋根を叩く雨音が聞こえる。それが眠気を誘う。
 湿っぽい蒲団に潜り、睡魔に任せて微睡んだ。
 榎木津や中禅寺は、なぜ私なんぞを気に入ったのだろうか。ふと気になった。地味で、とくに取り柄もなく、おまけに赤面症で失語症だ。鬱病の気さえある。そんな私と彼らとでは不釣り合いに思えた。
 きっとこの関係も、学校を卒業してしまえば消えてしまうのだろう。私達の接点は、同じ学校に通っていること、それだけなのだから。
 そういえば、中禅寺と初めて会ったのも、ちょうど今日のような雨の日だったな。
 ぴちぴち、ちゃぷちゃぷ、らんらんらん。子供の頃は雨が降ると、なんだかそれだけで楽しい気分になったものだ。今では憂鬱しか誘わないが。
 とりとめのない思考が続く。
「まさに見猿聞か猿言わ猿寝猿だな、猿!」
 そんな思考を打ち破るように、榎木津の声と共に戸が開かれた。
「なんの用ですか、榎さん」
「猿のしけた面でも見て笑おうと思ってな」
 なんだそのふざけた理由は。
「こんなところでじめじめとしていたら、そのうち茸でも生えてきそうだな。茸猿め」
 わけの分からないことを言いながら、榎木津はずかずかと部屋に這入ってくる。そして枕元に座った。
 榎木津に静かに見つめられると、なんだか少し落ち着かない。黙っていれば、本当にビスクドールのように美しい。そんなビスクドールは何を思ったか、私の頬をつんつんと突き始めた。
「な、何をするんですか」
「何って、猿を突いてるに決まっているだろう」
「それは言われなくても分かりますよ」
「髭くらい剃ったらどうなんだ」
 それを言われると痛い。
 やがて突くのに飽きたのか、今度は耳を引っ張り始めた。
「耳が伸びたらどうするんです」
「もともと猿みたいな耳なんだ、今更変わらんだろう」
「だとしても嫌ですよ」
 一体なんなんだ。暇なのかこの人は。そうか暇なのか。
「そんなところで何をしているんですか、榎さん」
 現れたのは、本を手にした中禅寺であった。中禅寺はいつでも本を持っている気がする。
「あまりにも暇だから猿をいじめに来たのさ」
 なぜ四畳半に野郎が三人もいるのだろうか。ただでさえ湿気ているのに、これでは絵面が蒸し暑くて仕方がない。
 ふと外を見れば、いつの間にやら雨はあがっていたようだった。紫陽花に付いた水滴が、太陽の光を受けて輝いていた。
「そうだ、気になっている喫茶店があるんだ。せっかく晴れたことだしそこに行くとしよう」
「行ってらっしゃい」
「何を言うんだ関、君はお供だよ、お供」
「喫茶店くらい一人で行けるでしょうに」
「珈琲を飲んで苦い苦いと喚く猿が見たい気分なのだ」
「失礼な、僕だって珈琲くらい飲めますよ」
「仮に飲めたとして、君はブラックとモカの区別もつかなさそうだがね」
 中禅寺までもが茶々を入れる。寄ってたかってなんと失敬な奴らだ。
「今着替えるから一寸黙っててくださいよ」
 寝巻きからシャツに着替え、我々は喫茶店へと向かった。
 道行きにも紫陽花は咲き誇っていた。ここらへんは青い紫陽花が多い。
 店先には、白い紫陽花が並んでいた。そういえば、紫陽花の花言葉には高慢という意味もあると聞いた。ならば、この白い紫陽花は榎木津かもしれない。
 席につくや否や、榎木津は我々には何も聞かずに珈琲を三杯頼んだ。全く勝手な人だ。
 ちょうど私の真後ろには女学生が二人座っており、彼女らの会話が聞こえてきた。
「──他にも、青い紫陽花には辛抱強い愛、白い紫陽花には一途な愛って意味があるらしいわよ」
「なんだかとてもロマンチックね」
 愛か。私達にはとても縁遠い言葉だ。
「紫陽花といえば、花びらに見える部分は花びらじゃないらしいぞ」
 彼女らの会話を受け、榎木津がそう言った。そうだったのか。知らなかった。
「そうですね。あれは装飾花でがくに当たる。本当の花びらはうんと小さい」
 中禅寺が付け足す。その間、私はへえとかはあとしか言えなかった。
「関口君は本当に物を知らないな」
「僕だって紫陽花の色が変わる理由くらいは知ってるさ」
「じゃあ言ってみなさい」
「土の酸性度によって変わるんでしょう」
「他にも品種の特性、土壌に含まれるアルミニウム含有量、土壌の水分量も関わってくるね」
「そんなことも知らんのか、やっぱり猿は猿だな!」
 そこまで詳しい人は花好きか本好きの中禅寺くらいなものだろう。全く以て心外だ。
 そんな紫陽花談義をしている間に珈琲が届けられた。
 普段は砂糖を入れるが、飲めると言った手前、ブラックのまま飲むことにした。
 やはり苦くて、思わず少しだけ顔を顰めた。
「やっぱり関君に珈琲は早かったようだね」
 榎木津が若気けながらそう言った。
「そんなことないですって」
「強がらずに砂糖を使いたまえ、関口君」
 中禅寺が砂糖の入った瓶を差し出す。
 迷った挙げ句、やはり砂糖を入れることにした。
 メニューをぱらぱらと捲ると、パフェのイラストが目に入った。
 久しく食べていない甘味に思いを馳せる。今日は暑いし、アイスクリームを食べるのにはちょうどよさそうだ。
「おや、ちょうど三種類あるじゃないか。パフェ三種類、ひとつずつだ!」
 慥かにメニューにはチョコレート、キャラメル、いちごと書かれていた。そしてまたも勝手に榎木津は注文してしまった。
 やってきたそれを榎木津が一口ずつ食べ、それから私のところにキャラメルを、中禅寺のところにいちごのパフェを置いた。どうやらこの自由な帝王はチョコレートが気に入ったらしい。
 キャラメルソースの掛かったアイスを口に運べば、濃厚な甘さが口いっぱいに広がった。早くも暑さにバテ気味だった体に染み渡る。
 それから私達は、ショーペンハウエルがどうだとか、食堂の味噌汁はしょっぱすぎるだとか、そんな話をして時間が過ぎていった。
 私にしては実に有意義な休日を過ごした。なんだかんだいって、それは榎木津と中禅寺のおかげであった。
 面と向かって感謝を述べるのは気恥ずかしかったので、心のなかでそっと思った。
 いつの間にか憂鬱な気分はどこかに消えていた。