逢魔時

 ──古来より、境界という曖昧な領域は、神聖であり禁忌でもあるんだよ。
 私は静かな境内で祭囃子を聞きながら、京極堂の言葉を思い出していた。

+ + +

 近くの神社で祭りがあるらしい。
 普段ならば聞き流すそれに興味を持ったのは、私と同じくらい出不精な中禅寺が行くと言ったからだ。珍しいこともあるものだと思ったが、そういえば中禅寺の実家は神社だったか。それならば得心がいく。
 興味を持ったといっても、やはり性根は変わらぬようで、講義が終わった頃には外出する気はなくなってしまっていた。今日も今日とて、寮に籠城して過ごすことになりそうだ。
 机に向かいながら窓の外を眺める。時刻は夕方といって差し支えないが、依然として昼間のように明るかった。夏至をとうに過ぎたといっても、夏の日は長い。夏は苦手とまではいわないが、汗かきの私にとっては少々つらい季節である。
 たまには腰を据えて予習でもしようか、と私にしては殊勝なことを考えていると、外からドタバタと足音が聞こえてきた。台風の到来を予感して、早くも諸々に対する諦めの念が込み上げてくる。
「関君、祭りだぞ! 祭りならばお供は欠かせない!」
「だからって、なんでまた僕なんですか」
「面白そうだからに決まっているだろう」
 和装の台風はそう宣言して私の腕をぐい、と引く。私はそのままへっぴり腰になりながら祭りへと繰り出すことになった。

 日が傾いてきたとはいえ、依然として西日が照りつける暑さのなか歩みを進める。すぐ近く、と聞いていた割にはなかなか距離があるようだ。健脚な学生の何と多いことか。
 暑さも相まって既に若干の疲労を感じてきたころ、だんだんと周囲に人が増えてきていた。どうやら噂の祭り会場に着いたようだ。鳥居にもたどり着かないうちに、想像以上の屋台の列と群衆に出迎えられる。
「実にいい賑わい具合じゃないか。僕の祭りにぴったりだ」
「榎さんの祭りじゃあないでしょうに」
 軒を連ねるのは、綿あめ、くじ引き、かき氷。子どもの頃、親に連れられて行った祭りのことを思い出す。感傷に浸るのも束の間、榎木津の手によって射的屋の方へと引っ張られていく。
「さあ関君、あの一番デカいのを狙うんだ」
「あんなの取れっこないじゃないですか」
「僕が取れと言ったら取るんだ!」
 屋台の親父さんにお代を払う。玉は五発。狙うは周りより一回りも二回りも大きな箱。重くて動かないに決まっている。しかしここで否と言えないのが私であり、渋々、銃を手に取った。
 一発目は盛大に外し、榎木津に大いに笑われた。私はなぜこんな目に遭っているのだろうか。二発目は置物の輪郭を掠めた。隣から、猿にしては飲み込みが良いだのなんだのと野次が飛ぶ。やかましい。三発目、四発目は命中するも、やはりびくともしそうになかった。だんだん悔しくなってきて、五発目をやや乱雑に仕込む。
「お手本を見せてあげよう」
 気がつけば、人形のような顔が真横にあった。色素の薄い瞳が、髪が、夕日に透けて金色に輝く。その人形は私からひょいと銃を取り上げ、静かに構える。そんな所作さえ、この男にかかれば妙に様になる。
 すぱん、と音が鳴ったと思えば、次いでごとりと音がした。いつの間にやら、置物は榎木津の手によってあっけなく彼の手中に収まっていた。
「納得がいかないな」
「そりゃあ君が関君で、僕が僕だからさ」
 なんの説明にもなっていない勝利宣言を受け、敗者はお代だけを持っていかれた。全くもって納得がいかない。私としてはリベンジを図っていたのだが、榎木津の興味は他に移ったようで渋々後を追った。
 参道は鉄板焼や焼き鳥屋の熱気と人いきれで満ちていた。私なんかは全身から汗が吹き出て拭うのに忙しいが、榎木津は涼しそうに人混みを掻き分けてゆく。
「関君専用のお面があるじゃないか!」
 榎木津の視線の先には、子供向けのかわいらしくデフォルメされた猿のお面があった。あれは子供用のお面ですよ、と食い下がるも、抵抗虚しく私の頭には猿のお面が鎮座することとなった。
「猿の顔がふたつあるぞ」
 大笑いしながら榎木津は満足そうにお面屋を去っていく。これでは私だけが祭りに浮かれた男のようではないか。榎木津が背を向けた隙にとりあえず外すだけ外したものの、さて、これの処遇はどうしたものか。
 次はこれだ、と指し示したのは金魚すくいであった。万が一本当に取れたらどうするつもりなのだろうか。寮で飼うわけにはいかないだろう。そんな心配をよそに、榎木津は大股で屋台に歩み寄る。
 隣に並ぼうと歩みを進めた途端、ただでさえ多かった客がさらにどっと押し寄せ、気がつけば人の波にさらわれて明後日の方向に投げ出されてしまった。これではひ弱猿と馬鹿にされそうだと思いながら、金魚すくいの文字を頼りに元の場所に戻れば、榎木津はこつぜんと姿を消していた。もう別の屋台に行ってしまったのだろうか。
 仕方がなく参道をたどり、拝殿を目指す。運が良ければ榎木津と落ち会えるかもしれない。徐々に人も屋台もまばらになり、門をくぐる頃には喧騒が遠く感じられた。
 そよそよと吹く風が心地良い。おかげで少しは汗が引きそうだ。
 そういえば、中禅寺が行くと言っていたのはこの祭りだったろうか。他にも祭りをやっている神社もあるかもしれないし、ここにいるかは分からないな。そんなことをぼんやりと考える。
 子供の頃はよく祭りに行っていたような気がするが、長じてからは縁遠くなっていた。今回こうして榎木津に連れて来られなければ、今後一切祭りに縁のない人生を歩んでいたかもしれない。人生にはハレとケの両方が必要だ、とはよくいうが、なるほどたしかに良い気晴しになる。なんだかんだいって、楽しんでいたことは事実だった。
 境内に来てからどれほど経ったろうか。気がつけば、日が沈みかけていた。そろそろ榎木津を探しに行かなければ。
 夕日が辺りを茜色に染め上げる。だんだんと景色が色彩を失っていく。
 それがなぜだか急に恐ろしくなった。
 蠢く黒い影たち。喧騒。木々のざわめき。背中に嫌な汗がつたう。
 私はひどく焦る。
 ここは本当に私の知る世界か?
 帰らなければ。
 どこに?
 足がもつれて上手く歩けない。
 何かに手を引かれる。

 ああ、逢魔ヶ時だ──

「こんなところで何をしているんだ、関口君」
「ちゅう、ぜんじ」
 気がつけば私は汗だくになっていた。暑さのためだけではないだろう。
「君は目を離すとすぐ向こう側に惹かれてしまうな」
 そう言って、中禅寺は私の腕を引く。そのまま拝殿前の階段に座り込んだ。向こう側、とはどういうことだろうか。
「古来より、境界という曖昧な領域は、神聖であり禁忌でもあるんだよ。AでもなければBでもない、あるいはAでありBでもあるそれは両義性を帯びている。境内なんかはまさにそうだね。境の内と書く。身近なところでいえば、十字路や辻、橋なども境界だ。そこは人間と神霊の接点であり、同時に不吉なものを追いやる場所でもある」
 前を向いたまま中禅寺は語る。この手の話題で彼の右に出る者はいない。長い前髪の隙間から、黒曜石のような鋭い瞳がちらりと覗いた。
「去年と今年とのあわいには初詣という儀式で以って境界線を引く。独身と既婚とでは結婚式を、生と死には葬式だな」
「だから昼と夜の間、夕方も特別なのか。逢魔時と呼ぶのもその一環かな」
「そういうことだ。夕方の別称といえば黄昏時もあるね。古語の誰そ彼に由来している。これは君でも知っているだろう?」
 そういえばそうだったな。だから人の群れが黒い塊に見えて恐ろしかったのか。恐怖の正体が分かった気がして、途端に肩の力が抜けた。
 安堵感から周りが見えるようになってきて、ようやく中禅寺が学生服ではなく浴衣を身に着けていることに気がついた。
「なんだか中禅寺らしいな」
「実家ではいつも着流しで過ごしているからな。それでだろう」
 飛躍した私の呟きに、しかし中禅寺は当意即妙に答える。
「さて、関口君。向こうで榎さんが待ちわびているよ」
 立ち上がった中禅寺の背後には星が輝いていた。もう恐ろしくはなかった。

「こらお猿、お供の分際で勝手にいなくなるとはどういう了見だ」
「関口君は境界で迷子になっていましてね。僕が回収しておきましたから」
「迷子なんて幼子じゃあるまいし、それに僕は──」
「なんだ、迷子だったのか。だから関君は猿なのだ」
 次はくじ引きを全部引くと息巻く榎木津を止めながら、日常に戻ってこられたことを実感して、私はようやく安心した。

+ + +

「また迷子かね」
 それだけ言って、京極堂は私の隣に立つ。
「もう迷わないさ。少なくとも今みたいなときには」
「どうだか」
 沈みかけの夕日が眩しかった。今の私の輪郭は、境界は、はっきりとしていて、だから大丈夫だった。
 敦子が私達を呼ぶ。また祭りの喧騒の中に戻るとしよう。