猫が二匹

 私は久しぶりに京極堂へと向かっていた。秋にしては暖かい日だったが、ひとたび風が吹けばやはり少々肌寒かった。
 息抜きがてら訪れたそこには思わぬ先客、榎木津が居た。私は定位置に腰を落ち着けながら、二人の様子を窺う。
 京極堂はいつものように、仏頂面で本を読む地蔵と化していた。初見だと常に不機嫌そうに見えるかもしれないが、これで上機嫌であることも珍しくはない。今日の彼もなかなか分かりづらいが、機嫌は悪くなさそうだ。
 榎木津はといえば、とくに何か依頼や事件があったという風でもなく、宙を見つめて呆然としたり、かと思えば古書肆の顔のやや後ろ辺りをまじまじと見つめたりしていた。京極堂曰く、榎木津には何かが視えるらしいが、私にはまだよく分かっていない。
 私は何を話そうか思案し、口を開きかけたところで横槍が入った。
「京極堂、出すべきものがあるだろう」
 それだけ言って、榎木津は寝転んでしまった。京極堂はやれやれといった風の顔をしながら、台所へと向かっていった。
「何です、出すべきものって」
「この探偵に隠し立てなど不可能、ということだ」
 探偵の返事はいまいち理解できない。今に始まったことではないので、諦めてその出すべきものとやらを待つことにした。
 帰ってきた京極堂が手にした皿には、羊羹が盛り付けられていた。さらに、急須からは鶯色の茶までもが出てきた。何もかもが珍事である。
「なんだい、そんな変な顔をして」
「関君が変な顔なのはいつものことだ」
 余計なお世話だ。ともかく、京極堂が干菓子以外の茶請けを出すことも、美味い茶が出てくることもなかなかない。そりゃあ変な顔にもなるだろう。
「まるで客人に対するもてなしみたいじゃないか」
「この僕をもてなすのは当然のことだろう」
「榎さんが言わなければ出すつもりはなかったんですけれどね。だがあまり長く置いておいて、悪くなっても勿体ない」
 ああは言っても元から我々にふるまう予定だったのではないだろうか。なんとなくだが、そんな気がした。
 京極堂は気まぐれなところがある。とくに頼んでもいないのに、私が気に入る本を見繕ってくれることは何度かあった。こうしてもてなしてくれるのも、きっと何かの気まぐれである。
 動物は飼い主に似るとよく言うが、もしかすると飼い主も動物に似るのかもしれない。腕の中からするりと逃げていく猫を見ながらそう思った。
 つまりこの家には猫が二匹居る、ということだ。

+ + +

 関口は実に気まぐれな男だ。ひと月もふた月も訪ねてこないかと思えば、連日のように押しかけてくることも多い。今日もなんの連絡も寄越さず、突然やってきたのだった。
 羊羹を食べて満足したらしい榎木津が帰ったあと、二人はしばらく本を読んでいた。京極堂が三冊目に入ろうかという頃、やっと一冊読み終わった関口は、柘榴と共に縁側へと移動していった。
 そのまましばらく縁側で柘榴を撫でていると思ったら、次に京極堂が顔を上げたときにはもう関口は寝入っていた。
 眠っているのをいいことに、京極堂はしげしげと関口を眺める。あれは起きているときに見つめると、すぐにおどおどしてしまう。まるでなにかに怯えるか、後ろめたいことでもあるのかのように見えるが、それが常態なので勘ぐることは大昔に辞めた。
 本人としては、本当に怯えているし後ろめたいのだろう。あらゆることが、彼にとっては不安要素なのだから。
 眠る顔は実に安らかであった。関口は魘されることも多い。こうして我が家で穏やかに眠ってくれるのは、悪い気はしない。
 日の光を浴びながら丸くなって眠る姿は、さしずめ猫のようであった。柘榴と合わせれば二匹、縁側で眠っていることになる。
 先に起きたのは柘榴の方であった。外の音を聞きつけて起きた猫は、優雅に伸びをしたあと、座敷の方へと歩いてきた。もう一匹はといえば、無防備に眠ったままであった。
「タツさんったら、中禅寺さんのところでも寝てるのね」
「今日はたまたま眠ってしまっただけだよ」
 千鶴子と共に帰ってきた雪絵の声でやっと目を覚ました関口が、ぼそぼそとしなくてもいい言い訳をする。
「それじゃあそろそろ帰るよ」
 それだけ言い残し、妻と連れ立って関口は帰っていった。
 膝にすり寄ってきた猫をひと撫でして、京極堂は本を置いた。

 その日は、千鶴子が実家に戻って不在であった。奇しくも関口の奥方も何やら用事があって不在にしているらしい。何やら、らしい、としか語れないのは、情報をもたらした関口本人がうろ覚えだったからに他ならない。
 取り残された亭主二人は、というより、生活能力に乏しい関口は、京極堂の元に身を寄せていた。
 もちろん関口にも一人で生活していた頃があるわけで、自炊もそれなりには出来る。しかし、いかんせん自堕落で鬱気もあるため、放っておくと眠り続けて、食事を摂らず不健康に過ごすことは目に見えていた。
「僕は狸蕎麦にしよう。君は月見饂飩にでもしたまえ」
 そう言って京極堂は蕎麦屋へと出かけた。
 蕎麦屋で待たされること数十分。岡持ちを持って帰れば、関口は口をへの字にして待っていた。
「ひとの分まで勝手に決めてしまうのはどうかと思うぜ」
「たかが飯ひとつ決めるのにも苦労する君だ。代わりに、僕が決めてやっているのだ」
「しかしだな」
 岡持ちから取り出したそれぞれの器から湯気が立ち上った。こんなくだらぬ言い合いをしているうちにも、刻々と冷めていっていることだろう。京極堂はさっさと蕎麦を食べ始めた。それに倣って関口も食べ始める。
「月見は見たままだろうが、狸は何が由来なのだろうか」
 しばらくお互い黙々と麺を啜っていたが、関口がふと、そう訊ねた。
「それには諸説あるな。天かすに関するものなら、天ぷらのタネを入れない揚げ物のタネヌキが転じて狸になった説がある。狐との対比として、つゆの濃さを理由に挙げるものもある。世田谷区砧家で始めたキヌタソバがその始まりであり、キヌタを逆から読んだとする説、うどんの麺の白に対して、そばの麺の黒を狸に例えたとする説など、まあ様々だ。」
 関口は、なるほどと呟きながら饂飩を啜る。
「君のその知識量は相変わらずだな」
「関口君、君はもっと本を読むといい。そうすれば自ずと知識も付くさ」
「京極堂ほど読む奴はこの世に数えるほどしかいないだろうよ」
 そうこうしているうちにすっかり食べ終わり、二人は箸を置いた。
「ご馳走さまでした」
「食べ終わったことだし風呂に入ろうか。君が先に入りたまえ」
「僕は後でかまわないよ。家主なんだから京極堂こそ先に入るといい」
「そうはいかないさ。僕がうっかり先に布団に入って、君は湯船でぐっすり、なんてことになったら困るからな。この時期じゃあ風邪をひきかねない」
 それに対して関口は、あ、とかう、とか言ってまごまごするばかりであった。斯くして関口が一番風呂に入ることとなった。

 風呂を済ませた二人は、それぞれ寝室と客間で眠った。
 夜中に目が覚めた京極堂は、関口の元へと向かった。案の定、関口は魘されていた。
「関口君」
 試しに声をかけるも、起きる気配はない。
 布団の横に腰を下ろす。関口の額には汗が滲み、呼吸は苦しげであった。時折、眉間に皺が寄る。
 関口の頭を撫でてやれば、荒かった寝息は穏やかなものへと変わっていった。これは昔から変わらぬらしい。
「……ちゅ、ぜんじ」
 寝ぼけているのか、夢を見ているのか。
 頬に手を添えてやると、すり、とすり寄ってきた。
 ああ、やはり猫だな。
 翌朝、といっても昼近くに、関口は欠伸をしながら起きてきた。
「おはよう関口君。よく眠れたかい」
「今日は悪夢を見ずに済んだよ」
「そうか、それはよかった」
 本当によかったよ。願わくば、夢の中だけでも安らかに過ごせるといい。