傘をどうぞ/共に濡れよう

 私は気がつけば雨に降られていた。道行く人は皆、傘をさして足早に歩いていく。水溜りに雨粒が波紋を描いている。空は黒黒とした雲に覆われ、自分がどちらを向いているのか分からなくなった。
 はて、私はどこを目指していたのだったか。そもそもここはどこだろうか。その場に立ちすくむ。雨が肩を濡らしていく。
 相変わらず、周囲の人々は忙しなく歩いていく。私だけがその場に取り残される。そうこうしているうちに、雨脚は強まり、すっかり濡れ鼠になっていた。
「濡れ猿め、これを使うがいい!」
 いつの間にやら目の前にいた榎木津が傘を投げてよこす。慌ててそれを受け取れば、私の手に品の良い紺色の傘が収まった。
 傘を開こうともだもだしている間に、榎木津はどんどん先に進んでいってしまう。そうか、私はそちらを目指していたのか。
「待ってくれ、榎さん──」

 いつもの天井が見えた。どうやら夢を見ていたようだ。
 蝉の声がわんわんと耳の内側でこだまする。額に汗が流れ落ちる。時節は夏真っ盛りであった。自殺というのは元気のある人間がする行為だろう。布団の上で、生きているのだか死んでいるのだか分からないような状態でそう思った。
 扇風機などない我が家では、ただじっとしていることが最良の納涼だが、どうやらそれでは打ち勝てないほどの暑さになっているようだった。このままではさらに二瓩痩せてしまいそうだ。
 重だるい体をなんとか起こして団扇を手に取る。扇げばそよそよと心地良い風が顔を撫で、すっかり鈍くなっていた思考が回り始める。
 私は雑司ヶ谷の事件を忘れられずにいた。否、忘れないように繰り返し記憶を辿っていた。そういえば、あのときも既に夏だったというのに涼子は汗ひとつかかず、ひんやりとした体温を保っていたことを思い出す。彼女は舞台の上の人形のようであった。それでも、私と同じ生きた人間であり、人生がそこにあったことを思う。
 米の炊ける匂いが鼻孔をくすぐる。雪絵が朝食を用意しているのだろう。冷めてしまっては勿体ない、名残惜しく思いながら布団から這い出た。
 ラヂオの天気予報が、今日は昼から曇りである旨を告げる。午後は神保町に行くこととしよう。それまでは原稿を進める。私にしては充実した一日になりそうだ。
 白紙の原稿用紙に向き合う。今日見た夢を下敷きに、一本話を書くとしよう。

 さほど埋まっていない原稿用紙の升目を眺める。夢から醒めたシーンから先がどうしても進まなかった。これはボツになるやもしれぬ。ぐぐ、と伸びをすれば、窓の外はすっかり雨が上がっていた。そろそろ出かけることにしよう。
 外は秋に差し掛かっており、曇りも手伝って随分と過ごしやすかった。これなら電車にも乗りやすい。
 古本屋を冷やかすだけ冷やかし、手持ち無沙汰になった私の足は自然と探偵の元へ向かっていた。
 榎木津ビルヂングと掲げられた瀟洒な建物が目に映る。ここに来れば何かヒントが得られるかもしれないと思ったが、とくに何も思い浮かばなかった。榎木津に会いに行ってもよかったが、また妙なことに巻き込まれるかもしれない不安が勝り、来た道を引き返した。もう探偵助手を演じるのは御免である。
「そこにいるのは関君じゃないか」
 振り返れば、榎木津がこちらに向かってきていた。なぜここにと問いかけようとして、それを言われるのはむしろ私のほうだと思い直した。
「丁度いいところに来たじゃないか。さあ来い!」
 榎木津は私の腕を引いて探偵社へと向かった。嫌な予感は早速的中したようだ。今度はなにをやらされるのだか。

「先生、間に合いやしたね」
 曇りガラスの扉を開けると、寅吉が喜色を滲ませながら言った。私達が入るや否や、業者によって何やら色々と運び込まれる。
「取り寄せるのは大変だったんだぞ」
 机の上に置かれたのは氷削機と氷であった。こんなもの、かき氷屋か縁日でしかお目にかからない。
「なんでまたこんなものを買ったんですか」
 私がそう問えば、
「そりゃあ僕がかき氷を食べたかったからさ」
 さも当たり前かのように榎木津は答えたのだった。だからといって氷削機ごと買うやつがあるか、と言いたくもなるが、それをやってのけてしまうのが榎木津という男であった。
「さあお猿、皿回しならぬハンドル回しだ!」
 結局こういう役回りに収まる運命なのだった。
 そんなこんなですっかり汗みずくになってしまった。体内にはこんなに水分があったのかと感嘆の念すら抱く。
「労働の対価だ。受け取りなさい」
 これでお預けだったら、何のために汗まみれになったのか分からない。ありがたく受け取り、削りたての氷を口へと運ぶ。氷の冷たさとシロップの甘さが、疲れた体に染み渡った。
 榎木津が子どものように鏡の前で赤い舌を出して喜んでいる。これで黙っていたら本当に人形のようだから、このくらい騒がしいくらいが丁度いいのかもしれぬ。

 外に出てみれば、カラスが電線にこれでもかというほど並んでいた。すっかり時間感覚がなくなっていたが、もう夕方なのかもしれない。
 野良猫が顔を洗う姿が目に入った。これは夕立に降られるかもしれない、と思っている間に、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。
 中野の駅で降りる頃になっても、雨は降り続いていた。当然傘の持ち合わせのない私は、近くの店の軒先で雨宿りすることにした。
 こうしていると、今朝見た夢と現実との境目が溶けていくような錯覚を覚える。あれは本当にあったことなんじゃないか。思考が夢と現を行ったり来たりしている間に、たったひとつ、違う点を見つけた。見慣れた着流しの男が居たのだ。
「天気予報なんぞを信用するんじゃなかったよ」
 京極堂は開口一番、恨めしそうにそう呟いた。おそらく、郵便に加えて気象庁も信用ならないものとして、彼の脳に刻まれたことに違いない。
 どうも雨はしばらく止みそうになかったので、仕方がなく京極堂と連れ立って、霧雨の中を歩いた。ただでさえ暑いというのに、湿気で蒸し暑いことこの上なかった。今夜も熱帯夜だろうか。
 ここからは私の家のほうが近いので、一度寄ることにした。私のシャツなんかは乾くまで放っておけばいいが、着物はそういうわけにもいかないだろう。タオルを持ってきて差し出すと、京極堂は受け取って肩の辺りを拭いた。
「関口君、君は着替えてきたまえ」
「このままでいいよ。ほっとけば乾くだろうさ」
「昔、そう言って、君は風邪をひいたことがあったがね」
 改めてみると、シャツは思った以上に湿っていた。言われた通りに着替えれば、存外体温は下がっていたようでくしゃみが出た。
 そうこうしているうちに雨は止んだようで、京極堂は帰っていった。

 今日はなんだか不思議な一日だった。夢の中でも現実でも雨に降られ、一方は土砂降りの中で傘を貰い、一方は霧雨のなかを共に歩いた。その状況がなんだかふたりらしくて一寸可笑しかった。
 昼間の労働と雨に降られたことで体力を奪われていたらしく、そう考えているうちに眠くなってきて、私はそのまま寝入ってしまった。