安寧の中で

 その日はなんてことのない日だった。次作のヒントを探しがてら、私は古書肆から買い取った本を読んでいた。少し休憩しようと思い、ふと本から目を離した瞬間に私は不安定になってしまった。
 本の内容はよくある探偵小説で不安定になる要素は全く無かったのだが、鬱というのは実に気まぐれなものである日突然襲ってくる。おそらく、ここのところ禄に睡眠も取れず、原稿にかかりきりになっていたことが敗因だろう。
 じっとりとした暗いものが纏わりついているような心地がする。外はこんなにも爽やかなのに。私に夏の明るさは似合わない。
 こうなるともう何も手につかないので、諦めて重い体を動かし、やや湿った布団に潜り込む。なんとなく、こうして縮こまっていると許されるような気がするのだ。本当はそんなことありえないのだが。
 なんと穏やかで虚しいことだろう。私は何も考えず、何もせず、ぬるま湯のような安寧に浸かっていた。布団は何も言わず、私をあたたかく包み込んでくれる。
 やがて怠惰な自分に嫌気が差して、無力な己の不甲斐なさを恥じ、自己嫌悪へと溺れていく。どうしようもなく彼岸への憧憬が溢れ出してくるが、鉛のような体では死ぬことさえできなかった。
 蝉の声をただ聞いていた。このまま眠って時が過ぎるのを待っていたかったが、どうにも目が冴えてしまって、まるで眠りに逃げることを許さないとでも言われているようだった。
「ただいま帰りました」
 玄関の鍵を開ける音と共に雪絵の声が響いた。もうそんな時間か。つい先刻、昼飯を食べたばかりな気がするのに、気がつけば雨も上がって空は茜色に染まっていた。
 こういう日は食欲がめっきり無くなってしまう。残してしまうのも忍びないので、雪絵にその旨を伝えなければ。なんとか体を起こして居間に出る。
「雪絵。夕飯は──」
「暑くなってきたことですし、今日は冷や麦にしましょうか」
 ああ、とだけ返事をして、また布団に倒れ込む。説明せずとも伝わるのがありがたい。元からお世辞にも喋りが上手いとは言えない私だが、こんな日はとくに喋るのが億劫でつらかった。
 よく冷えたそうめんは喉越しがよく、いくらか箸が進んだ。これなら少しは眠れるだろう。

 翌日。油土塀を見るともなしに眺めながらいつもの坂を登っていた。今日も当然のように体は怠かったが、家に閉じこもっていても思考が泥沼に嵌っていくことは分かりきっていたので、気分転換になればと思い古本屋を目指す。
 道の途中、この体調と日差しも手伝って、くらりと目眩がした。
 店先を覗いてみるも人影はなく、しかし骨休めの札も出ていないので、いつものように地蔵になっているのだろうと当たりをつけて母屋へと回る。
 勝手知ったる我が家のように無言で入れば、関東全域が滅んだかのような仏頂面の店主と目が合った。
 私は定位置に腰を下ろしながら、挨拶くらいしたらどうなんだ、と小言が飛んでくるだろうと身構えていたが、予想に反して京極堂は何も言わず、相変わらず出涸らしのような茶を出したあとに読書を再開した。
 私はといえば、風鈴が風に揺れるのをただ眺めたり、柘榴を撫でたりしながら静かに過ごした。
 気づけば時計は夕刻を告げ、そろそろ暇することにした。これでは本当に邪魔をしただけだなと思いながら、邪魔したね、と告げる。
「君にしては賢明な判断だったよ、関口君」
 それだけ言って、京極堂は手元に視線を戻した。それだけで、今日の行いが許されたような、そんな気がした。