ジグソーパズル

 今日は一服してから構想を練ろうと思い抽斗を開けたところでようやく、煙草を切らしていたことに気がついた。仕方がなし、煙草を買いに街へ繰り出す。
 その帰り道、子供向けの玩具が並ぶショーウインドウのなかにジグソーパズルが置いてあるのが目に入った。今日はこのことについて話してみよう。そう思いながら目眩坂を登った。
「お邪魔するよ」
「邪魔をするなら帰ってくれ」
「なら失礼するとしよう」
 仏頂面のまま冗句を述べる京極堂の向かいに座りながら、私はおもむろに今日のことと、そこから派生した考えを話し始めた。
「人間はジグソーパズルのようなものだと思うんだ。ひとつの言動はひとつのピースで、その人を構成する要素であると同時に、そのピースだけではすべてを理解することはできない。例えば、叱られることは自分の行動を否定されることだが、それはひとつのピースを否定されただけで、決して他の全てまでは否定されていないのだ」
 そう論理では分かっていても、認知の歪みによってすべてを否定されてしまったような気持ちになってしまうことも少なくない。また、成果物を褒められたとしても、それもまたひとつのピースでしかなく、自分の人格とは関係のない話だろう。
「パズルを辺から埋めていくのが攻略の鍵となるように、人間もまた輪郭、つまり肉体があるからこそ、そこに魂が宿っているとも思う。肉体の形によって求められる人物像があり、だからこそ自分の思い描く人物像に近づけるために多様な服が存在しているのだろうな」
 私の場合、伝えたい自分というものがほとんどないので、人畜無害を装うことしかできずにいる。それが社会に馴染むために手っ取り早いからだ。果たして本当に装えているのかどうかは分からないが。
 京極堂の場合は、自分がどのような存在かを示すために服を着ているな、と思う。古書肆にしろ、神主にしろ、憑き物落としにしろ。
「人間がパズルのピースの集合体と言うならば、テセウスのパラドクスにも触れねばならないね」
「それなら僕も知っている。たしか、全部の部品が置き換えられたとき、その船が同じものと言えるのか、という問いだったか」
「その通り。君の論を借りれば、そのパズルの形はそのままに、中身の絵柄が刻々と入れ変わっていくことになるだろう。人は不変ではいられないからね。それを構成するピースが全て置き換えられたとき、過去のそれと現在のそれは同じそれだと言えるかね」
「それは、流石に同じと言わざるを得ないじゃないか。そうでなければ──」
 そうでなければ、目の前の君は一体誰だ。そして私自身は、一体。
「人体は約40兆個の細胞で構成されているが、1日で1兆個もの細胞を入れ替えていると言われている。不要になった細胞は死んで、その近辺の細胞を分裂させて失った細胞と入れ替え、成長させるんだな。体の組織によって生まれ変わる年数は異なっているが、全体の九割七分の細胞が新しく入れ替わるのはだいたい六、七年ほどだ。さて、これでもまだ同じ人間だと言えるかい」
「細胞も入れ替わって、心の中身まで刻々と入れ替わってしまえば、それはもはや別人じゃないか。つまり、子供の頃の僕と今の僕とではまるきり違う存在だと、そういうことか?」
「そうとも言えるな」
 それならば、十年後の私もやはり別人で、そうならば、常に私は死に続け、そして生まれ続けてもいる訳だ。なんだか不思議な気分になる。
「しかしそれじゃあ、私の知る中禅寺と今の京極堂は別人ということにならないか?」
 ならば。ならばなぜ彼は知人を続けているのか。学生時代から優に十年は経っている私達は他人になってしまうのではないか。
 そんな私の内心を読んだかのように、京極堂は顔を上げて語りだす。
「そうはならないさ。日々変わり続けるとはいえ、記憶は連続しているからね。それに、残りの三分が知人であり続けるだろうさ。誠に遺憾ながらね」
「遺憾とはなんだ、遺憾とは」
 それでもなぜか私は安心してしまった。そうか、友人で居続けてくれるのなら、よかった。