「仕組みを説明する」と「価値を貶める」が同一視されがち問題

「人間はタンパク質の集合体である」
「つまり人生に意味はないってことか」
「んなことは言ってねえ」

「AI は次に来そうな言葉を推測している」
「つまりフリだけで思考してないってことか」
「んなことは言ってねえ」

おそらく価値と未知を同一視している層がいる。神秘性にこそ価値があり、説明がされると価値がなくなると思っている

柞刈湯葉(いすかり・ゆば) @yubais.bsky.socialのポストより

最初、これを読んでドキリとした。そうかもしれない、と。だが、本当にそうだろうか?

信仰とは、ブラックボックスをブラックボックスのまま、その未知性を拠り所として価値が発生するものだ。人間程度では理解し得ぬもの、それこそが信仰するに値する。

だから、身体という異物が過剰に生々しくて理解不能であればこそ、そこに価値を見出すことができる。それを言葉で説明してしまうと、今まで信仰していた価値が切り落とされてしまう。未知という穴が塞がれてしまう──かのように感じる。

理解不能で、しかし自分の思い通りに動き、身体から得た感覚がイコールで自分自身と結びつく。それこそが生活の場における人体への信仰だ。それを科学という場の言葉で説明されると、途端にその信仰は消え去り、理解可能な肉の塊に堕ちる。理解した(と思い込む)と、信仰的価値は激減してしまう。

AIもまた、人間の思考力はヒトの各個体に宿っているのではなく、その多くを言語による推論が担っているということを暴く。思考は単純な言語の機能として解体される。人類という種の特権性が剥奪される。

では、何を拠り所にして生きていけばいい。何を信仰すればいい。言語化不可能な現実、未知なる現実、それが消え去ったら、我々は何を頼りに生きていけばいい?

知能が高い個体なら、どんどん現実を言語で解体することを志してもいいだろう。だが全ての個体にそれが出来るとはあまり思えない。言語は、支えにするものとしては揺らぎがあり、不安定すぎる。

そもそもなぜ我々は何かを信仰するのかと言えば、それがなければ、究極的にはコミュニケーションさえままならなくなるからだ。言葉の仕組みはよくわからないが、でも伝わっていると思い込む──思考を共有できているという錯覚──を信仰すること。あなたと私は同じように好意を抱いているという錯覚すること、自分の意志で世界を変化させられると錯覚すること、その変化は常に同様であると錯覚すること……。

では、素朴な信仰を捨て、科学を信じればいいのか。しかし、科学とて言語の産物であり、数という概念は人間が理解可能な次元での記述でしかない。数に整合性があるのは数が絶対的に正しいからではなく、人間の直感に沿うような構造をしているからだ。なので、地球を科学的に記述すると、あまりにも人間に都合がいいように見える。しかしそれは、人間の次元で物を考えているからでしかない。

そんなモノの見方を、受け入れられるか? 今まで何千年、何万年と続けてきた信仰という行為を、捨てることができるか?

絶対的な価値などないかもしれないが、それでも、と思い続けるのは、疲れる。何も考えずに従うことができる主人を、人間は常に欲している。

あなたは信仰を捨てることができるか?

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