掃除

 四時に目が覚め、シリアルを食べる。そして二度寝。
 七時半に目が覚め、眠るのにも飽きたので、ツイッターを徘徊する。八時半、ツイッターにも飽きて起き上がる。
 一念発起、掃除することを決意する。台所の箱とペットボトル、机の上のいろいろ、それから脱ぎ散らかした洗濯物。全部片付いたときには二時間半経っていた。
 空虚がやってきた。流していた音楽を止める。
 音楽を聞いたり、動画を見ていれば、時間を潰せることは分かっている。分かっているが、そうやって過ごすことに抵抗がある。それでは駄目だと、私の中の私が叫ぶ。何かを考えなければ。考え続けなければ。この空虚さの原因を見つけなければ。ここから脱する方法を見つけなければ。強迫症のようなものだ。
 何もしない、というのは、簡単なようでいて、なかなか難しい。人間はじっとしていられるようには出来ていない。だからこそ、座禅が修行になるのだろう。
 腹が減ったので、とりあえず腹ごしらえをする。今日はハコネーゼのカルボだ。カルボのなかではハコネーゼが一番旨い。

 世界との接点が小さい、と思う。誰かと繋がろうにも、自分の属性が自分でも分からないので、属性をきっかけにすることができない。アニメや漫画のオタクを名乗るほど、それらに対する熱はない。とくに語りたいこともない。
 この際だから書いてしまうが、ブルスカでフォローしたクィア周りの者らのことは、勉強するための情報源として見ていたという部分が大きい。彼らはどこかへ行ってしまったが、マァ、適度に元気にしているといいな、とは思う。私はそのような人間だ。だから人情のようなものを求められても困るのである。そりゃあ、目の前に居れば、生き物として接する〝べき〟だから、そのように礼儀を尽くす。……そういう思考をしているから、きっと、ずっと、孤独なのだろう。いつからこうなってしまったのだろうか? 最初から?
 〝べき〟でがんじからめになり、不安に苛まれていた私を救うために、徹底的に〝べき〟を解いた結果、手元には何も残らなかった。空虚だけがあった。
 からっぽだ。
 死んだら親不孝者になるから死んではならない?
 私が死ねば、「私の世界」は消え去る。困ることなど何もない。いや、困るという概念すら消え去る。なにもかも無くなる。
 無意味だ。全てが無意味。
 誰かのために生きる?
 なんと傲慢なことか。私に何かを変える力などあるか?
 私ひとりが居ても居なくても、世界は恙無く回っていく。
 虚しい。
 気がついたら眠っていた。少し早いがカレーを食べる。そして薬を飲む。
 チョコレートが食べたくなったので、外に出る。チョコ、明日の昼飯のパン、スーパーカップを買った。
 明日のことだけを考え、無難な予定を立てて。そうすれば、きっと死ぬまでそれなりに暮らせるのだろう。しかしそれは欺瞞だな、と思う。では何が本当か、と言われると、それは分からない。いや、「本当」などというものは、この世に存在していない。神は死んだのだから。
 今なら簡単に彼岸に行けるだろうな。