意味と価値
バイト先とは逆の方向の電車に乗ってしまった。登校のときの方面である。無意識って怖い。
近代日本文学についてのポストを読みたくなり、脳の引き出しの一番手前にあった『人間失格』で検索をかけてみた。思った以上にノイズが多かったものの、ほう、と思うポストもあったのでよしとする。
私は大庭葉蔵のことが大好きだ。どこが、と訊かれると困ってしまうのだが、とにかく好きなのだ。
こう書いてみると、読書感想文を書きたくなってくる。
昨日に引き続き、何かを書きたいという気持ちだけが湧いていて、しかし何を書きたいのかが分からない。なら読書感想文を書けば良いではないか、と思うかも知れないが、そうするにはまず読まなければならず、しかし今は読む気分ではない、書く気分なのだ、などと我儘なことを思ったりする。
書くという行為は、コミュニケーションの手段のひとつだ。それは手紙だったとしても、物語だったとしても、同じことである。誰かに何かを伝えたい、という点で同じものなのだ。違いを挙げるならば、手紙は特定の個人に対して贈られるものであり、物語は不特定多数の個人に向けられている、という点だろうか。では、この日記は誰に宛てたものなのだろう。それは、未来の自分でもあり、フォロワーでもあり、通りすがりの誰かでもあるかもしれない。
思えば、日記を世界に向けて公開するというのはなかなか変なことのようにも思う。大概は、日記と言うと、自分以外に誰も読む者が居ない書き物を指しているだろう。だから、これは日記というよりは、随筆(エッセー)と呼ぶ方が正しいのかも知れない。だが、随筆に日記という題名を付けてもいいじゃないか、とも思うので、これは引き続き日記と呼ぶことにする。
どうやら世間には「無産オタク」という言葉があるらしい。それはつまり、創作をするオタクが偉くて、そうでない者は何もしておらず無価値であると、そういう価値観なのだろう。
だが、凡ての創作物は受け取り手が居てこそのものである。創作をしていない者が受け取り手である可能性は大きい。おそらく、なにかしらの作品を元に創作する者というのはごく少数で、トータルで見れば無産オタクの方が多いはずである。それなのに、わざわざ喧嘩を売るような言葉を使うとは何事だ。そんなに創作することは偉いことなのか?
創作が出来るということは、一種の能力だ。それは認められる。だが、能力があるから偉いとするのは、突き詰めればエイブリズムになるだろう。ひとは、何かが出来る出来ないに関わらず生きる権利があり、尊重されるべきだ。
意味や価値のある事柄と、ない事柄がある。そう思うかも知れないが、全ては無意味だ。先の創作を例にするならば、小説なんてものは文字を並べて紙にインクを染み込ませているだけだし、絵画とて絵の具をカンバスの上に塗ったくっているだけである。そこに意味や価値を見出すのは人間である。人間が居なくなれば、意味あるものに意味などなく、価値あるものに価値などなくなるだろう。だから、何かしらを無意味だ無価値だと言ってのけるのは、意味や価値を見出す努力を放棄しています、と宣言するのと同義である。
もちろん放棄したって構わない。そこに善悪はない。優劣もない。それを放棄した分、別のことに考えを向ければよろしい。しかし、自分が捨てた部分を貶めるのは駄目だ。無意味無価値であることは、謂わばニュートラル、零であり、マイナスだとか悪だとか害だとか、そういったものではない。ただそこに佇んでいるものだ。たしかに、ただ立っているだけでも、場所によっては邪魔だと思うこともあるだろう。だがそれは、避ければいいだけだ。目を瞑り、鼻を摘めばいい。
もし、自分が無意味無価値だと思っているものに他者の関心が向いて、その状況が嫌だと感じたのならば、なぜそう思ったのかを考えると面白いだろう。例えば、価値を奪われたと思うかもしれない。しかし価値というものは総量が決まっている訳ではない。パイの奪い合いなど最初から起こっていなくて、だから自分は自分の信じる価値を信じ通せば良いのである。いや、価値ではなく注目を奪われたことが嫌なのかもしれない。その場合はパイの奪い合いが発生することになる。当然、奪われた側は面白くない。しかしだ。その「注目される」という状況は、果たして価値があるのだろうか。物事に価値を与えることができるのなら、価値があるとされているものから価値を抜き取ることも出来るだろう。ただ、そうは言っても、我々が生きるのは資本主義の世界だ。注目されなければ金にならず、金にならないのならば無駄だ、損だ、とされてしまう。資本主義は常に利益を出さなければならない。無や零はマイナスと同義になる。だから我々は、生まれた瞬間からプラスであれ、マイナスは害である、悪であると刷り込まれて育つのだ。
資本主義の外側に出れば、価値が無いことにこそ価値がある、ということだってあるだろう。それが芸術というものの一側面でもある気がする。
我々はプラスとマイナスの二項対立の中で生きることを余儀なくされている。そこから脱して、人生をニュートラルな状態に持っていくには、無駄なことをすれば良いのかもしれない。
この日記とて、見る人が見れば無駄としか捉えられないだろう。ならば、私は明日も無駄なことをしようと思う。無駄なことほど楽しいものはない。