現実の虚構性、魂のかたち
耳に水が入ってしまったので、耳を下にして片足で跳ねた。そうしたら乳が揺れて、少し驚いたあと、「ああ、そういえば自分は乳房所持者だったな」と思った。
乳は、ほぼ常に、布で覆われている。冬場はコートを着るので、さらに隠れる。存在感が希薄になる。着替える時も、服を脱いで風呂に入る時も、鏡は見ない。とくに意識してそうしている訳ではないが、見ない。そういった具合で、私は今の今まで乳があることをほとんど忘れていたのだ。いや、存在していることは忘れていなかったのだが、質量を伴っているものだと言うことは、本当にすっかり忘れていた。
私は私のことを、二次元として認識することしかできない。その方法は写真であったり、鏡であったりする。鏡は表面しか触れられないから、三次元と同時に変化する二次元だ。鏡に映った、乳房のある私の姿。それは、あくまでも、そういった抽象としてしか私の頭には入ってこない。現実味がない。自己のこととして上手く受け取れない。
鏡は現実なのだから、鏡に映った自分だって三次元じゃないか、と言えるかもしれないが、私はそうは思わない。
そもそも、視覚情報は本当に三次元だろうか。我々が真に三次元を視認することは可能だろうか。視覚とは、眼に入ってきた光を三色に分けて、その後、色と形、動きと速さに分けて処理し、それらを統合したもののことだ。三次元とは、すなわち立体のことだ。視覚処理に、立体は含まれていない。
立体視は思い込みと言ってもいい。大きければ近くて、小さければ遠いだろう。影が落ちていればそこにあるはずだ。それに疑問を投げかけるのが錯視アートだ。脳は簡単に騙されることがよく分かる。
では、3DCGと三次元の視覚的な違いはあるだろうか。作り物だと分からないほどに作り込み、テクスチャを貼ってしまえば、視覚的にはCGも現実と同じものなんじゃないだろうか。逆に、造形が簡素で、情報量の少ないテクスチャで構成された現実の空間に放り込まれたら、そのとき私はそこを本当に現実と認識できるだろうか。
虚構と現実の区別はどうつけるか。視覚ではないとすれば、触覚に委ねられているのかもしれない。触れればある程度は三次元として認識されるだろうが、こと自分の体に関しては、「触れる」感覚と同時に「触れられる」感覚もやってくるから、イメージの統合がむずかしくて、上手く立体として認識されないように思う。自分に触れる感覚だけを抽出するのは不可能なので、ならば触れられる感覚だけを抽出すれば、私は私の立体的な全容を把握できるかもしれない。だが、それには他者の協力が必要不可欠であり、私は他者にべたべたと触られたくないので、やはり不可能だ。
そもそも、触れるという行為とて、神経から伝わった信号を脳が再構成したものに他ならず、ならば視覚とそう変わりのない、実に心許ない存在じゃないか。
全てが脳の作り物ならば、(いわゆる)虚構と(いわゆる)現実は等価と言えるだろう。だから、私にとって、アニメも漫画も小説も、現実と同じかそれ以上に大切だ。彼ら、彼女ら、彼人らは、かの者らは、間違いなく生きている。私と同じように。
真の私は言葉の中にのみ宿る。これもまた真実だ。脳こそが全てなら、脳から紡がれる言葉は私という存在の真髄だ。ゆえに、私はここに、ここに存在している。
さて、冒頭の話に戻る。体への意識が希薄なのは、私が脳に、魂に価値を置いているからだろう。だから、身体の違和感というものを抱いたことはないし、なんなら乳の存在をすっかり忘れ、たまに存在を主張してくるそれに驚くことになる。ただ、ビジュアルとして、乳が無いほうがより好みのキャラクターデザインになるな、と思う程度だ。身体はあくまで容器でしかない。魂は別の形をしていて、それに近い単語が妖精なのだ。私のゼノみはそこにある。
昔は、姿形こそ人間だけれども、やはり中身は人間ではない何かで、それは人間に対して脅威になりうるもので、だから「妖怪」だと思っていた。今は、ひとに対して善いことをしたりイタズラしたりするかわいい存在だと思えているので、妖精だ。いずれ、魂のかたちは変わるかもしれない。魂は常に変化し続けている。