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さて、昨日は、私がなぜ演じることを迫られているのか、演じる中での感情などを記した。今日はもう少し客観的に話してみたい。
正常とは何か。言い換えれば「普通」であり、さらに言い換えれば「マジョリティ」である。
異常という区分は、マジョリティがマイノリティという、ムラの秩序を乱す存在を排除するためにある。しかし、正常と異常の間には明瞭な境界線などない。その場その場で変わっていく。明文化されていない。だから、普通に収まらなければならないと思っている私を不安に陥れる。
人間は、目の前の人は〝自分と同じ人間〟だろう、という予断をもってコミュニケーションを始める。そうすることで思考を簡単にする。それは楽に生きるための方法のひとつだ。そうして安心しきって対話しているところで私の「違う」部分が現れると、相手は驚いて攻撃の姿勢をとる。ありえない、と否定する。現にありえているというのに。
ネット上なら、自己紹介欄や過去の投稿から、そのひとがどのような存在かを推し量ることができる。だから、物理世界では見つけにくい仲間を発見して繋がることができる。そのひとなら、私を否定せずにいてくれるだろう、という予測が立てられるので、安心できる。
そう、私は物理世界において安心できないのだ。だからコミュニケーションの場において、いつも緊張している。攻撃されないために、普通を演じている。
しかし、だからこそ、攻撃を受けることもある。ジェンダーの話なら、女性と呼ばれたり(ミスジェンダリング)、バイナリーな性別に従って「さん」や「ちゃん」を付けられたり、私を含む複数人を女性として括ったり、そういったマイクロアグレッションがある。
攻撃されないための演技だったはずなのに、攻撃されてしまう。それでも、さらに攻撃されないために、我慢する。我慢の連続だ。
その他のことも、これが〝普通〟だよね、これが〝当たり前〟だよね、というものに私は当てはまらないことが多い。その度、居場所が無いと感じる。それでも、否定されないように、異を唱えることを我慢する。それに当てはまっているように演じる。
私はなぜ演技をしているのだろう。
なぜ演じることを迫られているのだろう。
それは、攻撃してくるひとが居るせいだ。それがなければ、私はこうだと表明できるし、私は私らしく、安心してそこに居られる。
圧倒的に、世間の理解が進んでいない。人は男女に分けられるという二元論でしかものを見れていないし、男ならこうで女ならこうだろうという偏見に満ちていて、マジョリティだけが世界の全てだと思い込んでいる。その上、そこから外れれば攻撃してくる。それは明らかに差別だ。
この世には差別が蔓延っている。だからマイノリティは、隠れることで身を守ることを選ぶしかなくなってしまう。攻撃に対して、直接正すことは誰でもできる訳じゃない。
だから、少しずつでも変わっていくように、私は文字で発信していきたい。誰もが自分らしく生きられる世の中になるように。