時折、私は偽物だと感じる。
人間のふりをした偽物。作り物。演技。嘘。
常に、本当の私という秘密を抱えている。
目の前にいる人間に私のことが知られるのが怖い。まともなふりをするしかないと思ってしまう。まともなふりをしなければならないということは、私はまともではないということだ。
なぜまともなふりをしなければならないと思ってしまうかと言うと、そうしなければ排除される危険性があるからだ。
私は誰かのふりをしなければ、人並みになれないと感じている。
本当は、世間話よりも抽象的な話をしたいし、私の過去は他者とは少し違っている。例えどんな者についてでも悪口は言いたくないし聞きたくもない。それは潔癖なのかもしれないが、本当のことだから仕方がない。
それでも、人並みにならなければ、ばかにされ、笑いものにされてしまう。不気味なものとして好奇の目で見られてしまう。私の考えは否定されてしまう。そういうふうに刷り込まれてしまったし、実際のところ、そうである。
もちろん、そうではない環境があることは重々承知しているが、怖いものは怖い。
本当の自分を押さえつけて隠すのは、ひどく疲れるし、つらい。常に自分で自分を否定しているから。私は間違っていると、私自身が私に言っている。本当は、私だけが私の味方であるはずなのに。
こんなのはおかしい。間違っていると考えるのは、間違っている。間違いの堂々巡り。結局、私はどこまでいっても異常ということになってしまう。
「私にとっての正常は私の中でしか正当化出来ず、私はどこにいても異分子だった」という一節を思い出す。どこにいても、誰といても、私はその場において異分子なのだ。あなた達と同じにはなれない。
これは一対多数で考えているからそうなるのであって、本当は目の前のあなたと私との関係性なのかもしれない。しかし、それはやはり、そういう場でしか実現せず、多数の人がいる場所では、やはり一対多数になってしまうようにも思える。
私は生涯の中で、喧嘩らしい喧嘩をしたことが一度もない。相手に本音をぶつけるということを学ばないまま大人になってしまったからだ。
それは喧嘩だけにとどまらない。私はいつも、本音を隠している。
最初から、本音を言ったってどうしようもないと思っていた。私が我慢すれば、全てが上手くいくのだから。その場その場で上手くいけば、あとはどうでもよかった。
私は二度、本音を強く伝えたことがある。しかし、それは無視されてしまった。それからは、本当のことを言っても取り合ってくれないし、否定される。それで傷つくならば、関係が終わってしまうならば、最初から隠して、最後まで隠し通してしまえばいい。そう思うようになった。
私はすっかり閉じたひとになってしまった。いや、最初から開かれてなどいない。私は間違っているのだから、閉じたままで、普通の人を演じるしかない。
そしてさらに、無視されてからは、人と関わるのが疲れるようになった。
今更「伝えても良い」と言われても、どうすればいいのかさっぱりわからない。だから偽物であり続けるしかない。
私はひとのなかにいながら、常に孤独だった。
かつて、ツイッターで誰かと交流するのは楽しかった。それは嘘じゃないと思えた。友達のようにバカをやって、仲良くして。
だが、価値観が変わっていくにつれ、私はやはり孤独になっていった。関係が消えていった。
もはや悲しいとすら思えなかった。
ひとつ言うなら、淋しいと思えないことが淋しかった。
最後に残った関係すら、私は本音を伝えられないまま終わってしまった。私は最後まで、偽物でしかなかった。
だから私はツイッターを辞めた。もはや続ける意味がなかった。
今、ブルースカイを始めて、ようやく本当の自分になれた気がしている。
不当なことには怒って、楽しいことは楽しんで、伝えたいことを素直に伝えられている。こうして日記を書いても、否定されることはないし、反応が返ってくる。
とても嬉しいし、とてもありがたいことだ。
ようやく私は本物になれた。
そしてあなたも、きっと本物になれる。
ここだって十分に現実なのだ。だから、ここでの本当は、事実であり真実だ。
ここが招待制でなくなっても、こうして誰にも否定されることなく、心の底から本音を言える場所であり続けてほしい。
誰に直接言うわけでもないポストでも、私はそれを拾いたいし、肯定したい。
あなたは本物だ。これだけは、嘘じゃない。