行き着く先は承認欲求

 私がこうしてネット上で日記を書く理由は何だろうか。

 なんだかんだ言って、やはり承認欲求なのだろう。しかし、即時的な承認欲求ではない。それならば、ここではなくnoteに書いている。
 私は未来のために書いている。いつか誰かが見てくれるかもしれない。その誰かが、私の文章の中に居場所を見つけるかもしれない。いや、そんなご大層に理由ではないか。いつか誰かに私の考えを認めてもらえるかもしれない。所属の手伝いになるかもしれない。そんなところだろう。
 つまり、今の私は未来を信じているのだ。未来なんて来なければいい、と思っていた頃からすれば、すごいことだ。これが良いのか悪いのかは分からない。分からないが、これが生きやすさというものなのかもしれない。

 生き続けるには、未来のポジティブな可能性を、ほんの少しだけでも信じなければならない。ほんの少しすら信じられない状態が絶望であり、泣き喚くことができない人は粛々と死を選ぶことになる。
 泣き喚くことは、言い換えれば、助けを求めるということだ。だから幼児はすぐに泣く。
 大人は泣き喚いてはいけない、という不文律のルールがある。なんなら、子供すら泣いてはいけない場合もある。泣く代わりに、言葉で助けを求めなければならない。それはとてもむずかしいことだ。

 おそらく言葉というものは、コミュニケーションのためには作られていない。もしそうならば、もっと上手く意思疎通ができるはずだ。だから我々は、あの手この手で対話を試みて、言葉を重ねるのだ。

 しかし、伝わったうえで言葉が軽んじられることがある。とてもよくある。それは、ときに事態を、ときに他者そのものを軽んじているということだ。そうなると、自分には価値がないのだ、と思わされてしまう。決してそんなことはないのに。
 そんな状態の人が、未来を信じるのはむずかしい。だから、せめて私だけでも、あなたの声が聞こえたよと伝えたい。それが助けになる可能性が少しでもあるのなら。
 そういう意味でも、やはり私は未来を信じているのだ。

 私は常々、他者のことなんてどうでもいいと思っている。それはいわゆる〝普通〟の人に対してのことだ。他者に愛され、自分を愛し、未来を無条件に信じているような、そんな人は放っておいても勝手に生きていることだろう。だからどうでもいい。関心を向ける必要がない。
 だが、そうでない者のことは別だ。どこか心に傷を負い、不安定になっている人のことは放っておけない。私が助けになりたいと思ってしまう。
 それはとても傲慢なことだろう。人には人を救うことなどできない。できるとすれば、それは神だけだ。

 無条件で、常に(常に!)承認できるのは神だけの御業だ。神は常に見ている。
 しかし、それで救われるのは信心深い人だけだ。そうでない者は心を病み、絶望する。だから、神の承認の代替品として、他の人間からの承認を求める。
 私が未来を信じることができているのは、幸運にも、両親に愛されているからだろう。しかも、私ひとりだけに向けられた承認だ。兄弟もいない。親は他者との交流が少ないので、私のみに関心が向けられている。こんな特大の承認はそうそうない。そして、だからこそ、私は他者をどうでもいいと思えるのだろう。
 しかし、これはなかなか危ういことでもあるな、と思っている。私もまた親に強い関心を向け、そして肯定している。関係が二者間で閉じている。それはある種の共依存と言えるだろう。
 今はいいが、もし親がボケて私のことを忘れてしまったら、私はどうなってしまうのだろう。

 承認というものは、上辺だけではなかなか満たされない。
 だから、いいねの数を拠り所にしている人は、もっと、もっとと多くのいいねを求める。それが悪いこととは言わない。行動の原動力になるのなら、それは人生を充実させるだろう。
 人は多く、本当の自分を見てほしい、本当の自分を認めてほしいと思っている。だが、一歩でも外に出れば、ある程度は仮面を被ることになる。〝普通〟という仮面を被ることで、所属しやすくするためだ。
 ということは、所属欲求と承認欲求は相性が悪いのではないか?
 いや、おそらく、器用な人間は所属のための仮面を外すのが上手くて、だから承認を得られるのだろう。不器用な人間は、仮面を外せない(私もそうだ)。あるいは仮面を被れない。
 なまじ仮面を被るのが上手いと、相手はそれを真実だと思ってしまい、仮面を剥がそうとはしてこない。いや、多くの人間は他者の仮面を剥がすのは面倒だと思っているのだろう。そんなことよりも、自分の仮面を外すことばかり考えているのかもしれない。
 私だってそうだ。自分の仮面が外せないことばかりに悩んで、他者の仮面の下など考えちゃいない。

 だから、私はTwitterを求めたのだろう。どうでもいいような仮面の下をさらけ出し、素の自分を認めてもらえる。それも呟きという楽な方法で。
 だが、今はもう、昔のようにどうでもいいことを投稿するのがむずかしくなってしまった。
 だからこうして日記を書いている。素の自分を認めてほしいから。