善く生きる
息苦しさを覚える夜がある。今がそれである。
これは比喩ではなく、物理的な話だ。息苦しいというよりも、喉を絞められているような感覚、と言ったほうが近いかもしれない。おそらく心因性なのだろう。
取り立てて不安も何もないし、なんなら薬によって不安を消し去っているのに、それでもなお身体症状が現れるとは困ったものである。
こういうときはスマホに逃げ込みたくなる。だがそこをぐっと堪えてじっとしていれば、眠りにつくことができる。
……のだが、最近は、寝ついたと思ったらすぐ目が覚めてしまったりする。今がそれである。
こうもしっかり覚醒してしまうと、もう一度眠るのは至難の業だ。仕様がないからこうして記事でもしたためようかいね、となる。そして生活リズムが崩れていく。悲しい。
息苦しさに襲われると、鬱がひどかったときのことを思い出す。あの頃は、起きているときでも、そうなることがあった。なので、この症状がでると、あの頃の感覚に支配されそうになる。思考を不安に蝕まれながら、布団の中で怯えて明日を待つしかなかったあの日々。大丈夫、大丈夫とずっと唱え続けたあの日々を。
楽になりたいと思ったときはよく、首を絞められる想像をした。だからこんな症状が出るのかもしれないな、なんて思ったりする。
思わず丸くなりたくなる。けれど、今はもう必要ない。不安はどこにもない。なんと恵まれていることだろう。恐ろしいことは過去に起こったことで、今はもう違う。けれど、精神的な息苦しさは、きっと、ずっと、続いていくのだろう。何をしたって後悔ばかりだ。
諦めてしまえば楽になるのだろう。けれど、自分が楽に生きるのを許せない自分がいるのだ。苦しみ藻掻き、自己を研鑽し、うつくしく生きる。それだけが人生の価値であると、そう思うのだ。もちろん、そんなことはないと頭では理解している。もっと楽に生きていい。そうすれば幸せになれる。
つまり、私は幸せに価値を見出していないのだろう。幸せは、言い換えれば平和だ。諦めて生きるのは平和すぎる。だから、苦しみを選ぶ。それが生の実感を得る方法だから。いや、苦しいことこそが人生だと思い込んでいるのかもしれない。人生の半分を鬱々と過ごしたから、苦しい状態がデフォルトになってしまっているのだ。
正しくありたい、と思うのは、今が正しくないと思っているからだ。それは自分を否定することである。つまり、私の苦しみはそこに起因する。
平穏に生きることだけが幸せか、と問いたい。おそらく大多数のひとがそうであると答えるだろうが、私は正しくあることこそを幸せだと定義したい。たとえそこに苦しみが伴ったとしても。
なにも、常に苦しみ続けている訳ではない。答えがすぐ出る問題ならば、次はこうしよう、で終わる。だが今は、答えのない問いにぶつかっている。だから苦しい。
私は善く生きたいのだ。平穏のために他者を犠牲にはしたくない。それならば、私が苦しんででも善くしていきたいのだ。
私がここまで正しさに固執するのは、いじめと、それからクラスのピエロにされてしまった人物を立て続けに見たことに原因があるように思う。
いじめに加担すれば、本人は平穏を得られる。被害者を犠牲にして。傍観もまた加担することである。だから私は抗議した。しかし取り合ってもらえなかった。よくある諍い、程度に受け取ったのだろう。小学生ならともかく、中学生のしっかりした子が教室で泣くような状況は、果たしてよくあることなのか? そう片付けてしまっていいのか?
今でも新鮮に怒りの気持ちが湧く。それは取り合ってくれなかった教師に対してではない。教師をその考えに至らしめた世界に対して怒っているのだ。
ひとりの言動によってクラス中が湧く。そう書けば普通の話だろう。しかし、本人は至って真面目に行っているのに笑いが起こったらどうか。それは嘲笑ではないのか?
教師は言った。彼は、そこが居場所だからいいと言っていると。本当にそれが本音だと思っているのか? だとすれば馬鹿にもほどがある。言葉をそのまま受け取らずに裏を考えることなんて、高校生でもできる。大の大人がそれすらできずに教師になってしまった世の中を憂う。いや、彼にはそれが必要なかったのかもしれない。
それはそれで幸せなことだろう。だが、そんな浅慮さで傷つき続ける子がいるのは見ていられない。教師失格である。だからといって、私が教師を目指すほどの熱意はない。体力もない。一人で勝手に鬱になるような人間が、40人の人生など背負えるはずもない。自分と身の回りで手一杯だ。だから、教師という職ほどむずかしいものはないし、故に人手不足になる側面もあるのだろう。
せめて、私の手の届く範囲の人は救いたい。いや、救うという表現は強すぎるな。少しでも支えになれるような、そんな存在になりたいのだ。そのために善く生きようと思っている。