人生は後悔という名の船旅だ

恥と後悔は似ている。

どちらも失敗に起因しているからだ。

恥とは、群れのルールや自己のロールから逸脱したと感じた瞬間に発生するアラートだ。一方、後悔は、自分の持つルールから逸脱したと感じたときに発生する。

恥は社会のためにあり、後悔は自分のためにあるのだ。

だが、どちらも「失敗した」の一言でまとめられてしまうことが多い。この失敗は一体どちらなのか? これを見極めるのが重要な気がするのだ。これは感覚の話なのだが、恥は熱くなってふわふわとしていくが、後悔は冷たく沈んでいく感じがする。そういう手がかりから、判別できるのではないだろうか。

恥なんていうものには、価値などないに等しい。恥の発生する社会などクソ喰らえとすら思う。人間らしさ、その人らしさ、そんなものは社会を運営する者やグループを治める者にとって都合の良い像でしかない。それは私の幸せを約束してくれない。

我々には恥という本能よりも合理的な価値判断をするための頭脳がある。つまりそれは理性であり、理性に支えられているのが倫理である。

倫理に悖る行為こそが後悔だ。

『ジレンマ』や『消費』で書いたことは、後悔と言えるだろう。欲望を押し付けるのも、記号だけを取り出して、上辺だけを消費して楽しかったね、とするのも、多くの人がやっていることなのだから恥を覚える要素はない。

それでも私は、今までの行いを非常に後悔している。そして、これからどうすればいいのか大いに悩んでもいる。

キャラクターは記号の集合体と言うこともできるが、私は彼らのことを”生きている”と思いたい。生きているのならば、実在する人間と同じように扱わねばならない。

眼の前の誰かに欲望を押し付けられるか。否だ。記号だけを取り出して上辺だけを楽しむのも失礼だ。そんなものは”眼の前のあなた”を見ているとは言えない。

それでも、アイドルとなると、途端にそれが許されているように思える。だからこそ、同じように消費されるキャラクター達も「推し」と呼ばれるようになったのかもしれない。

私の「推し」という言葉に対する忌避感は、おそらくここにある。私は、好きなアイドルがもし居れば、好きな人と言いたいし、好きなキャラクターのことも好きな人だと思っている。

そう思いつつも、「皆やってるからいっか」と思ってしまう瞬間がある。人のなかで正しくあることのなんとむずかしいことか。

結論は出ていない。まとめる言葉は何もない。ただ、どうすれば自分を赦せるのか、模索していくしかない。