多角的に見つめる、あるいは〝べき〟からの脱出

人と関わる〝べき〟だ、人と会話する〝べき〟だ、と大人は言う。

それは、社会を運営していく上で、他者との接点はどうしても生まれるからだ。しかし、果たして本当にそうだろうか。仕事に必要なホウレンソウさえできていれば、他の会話なんて必要ないではないか。

だが、こうも思う。人は視点が偏りやすい。ある人からは丸に見えていても、ある人からは長方形に見えたり、円柱に見えたりすることがあるからだ。その差異がときに軋轢を生む。だから、そういうときは対話が必要なのだ。

軋轢はなにも人と人だけではなく、ひとりの人間の中でも起こりうる。認知の歪みは人の思考を歪ませ、現実から乖離してゆき、どんどんと不安を膨らませる。それを是正するのが対話だ。

しかし時間をかければ、ひとりでもいくつかの視点を想定して多角的にものをみることは可能だと思うし、私はそういう思索が好きだ。

人はひとりでは生きてはゆけない。誰かと関わりを持つことこそが幸福だ、とする人は多いんじゃないだろうか。けれど、なにもそれだけが絶対的に正しい答えではないだろう。

人のストレスの原因は、多く人間関係にあると言う。それなのに、人と関わることを求めるのは、私にはあまり理解できない。

こんな話がある。ラットが必要とする餌や玩具など、ありとあらゆるものを与え続けると、やがて生殖を行わなくなり、最終的には毛づくろいばかりをして過ごすようになるらしい。この話を聞かせてくれた人は、それを恐ろしいと言ったが、私にとってはそれこそが幸福だと思えるのだ。

それはちょうど、通信制高校に在席していた頃の私のようである。飢えることはなく、人との接点も一切なく、ただ己のためだけに絵を描き続ける。それはとても幸せだった。

今だって、飢えることはないし、人との関わりは最小限で、自分のために文字を書いたり学んだりしている。自己研鑽は毛づくろいに似ている。

マズローの欲求五段階説というものがある。曰く、生理的欲求がある程度満たされれば、安全を求める。その次に社会的欲求、つまり所属欲と承認要求が現れると説いている。

例えば、空腹を訴える人が二人居たとする。一方はお茶碗一杯のお米と味噌汁で満足するが、もう一方は大盛りのラーメンに餃子を食べなければ満足しなかったとする。このような話はよくあることだ。また、睡眠が3時間で事足りる人も居れば、8時間後寝なければ満足できない人も居る。これは生理的欲求の程度の差異を表しているし、この程度なら皆納得するだろう。

しかし、社会的欲求となった途端に、人と多く接する〝べき〟であり、それができなければ失格だ、といった風潮になる。食欲や睡眠欲と同じように、所属欲だって程度の差があって然るべきはずなのに。私としては、親との繋がり、つまり家族への所属と、ネット上での細々とした関係があれば、それだけでもう十分だと感じる。

しかし、私は規範に背くことに大変不安を感じる質でもある。だから、〝べき〟に逆らうのは途轍もない心理的な努力を要する。そうでなくても大丈夫なんだ、と思えるように、こうしてたらたらと文章を書くほどには。私は他者との対話を放棄する代わりに、こうしてひとりで思索することを愛するようになった。

過去の人との関わりは、所詮暇をつぶすための馴れ合いでしかなかった。いや、人と会話することの多くは、暇をつぶすための道楽、もしくは孤独感を慰めるためのものなのかもしれない。だが、今の私は対話を求めている。だから人間関係が煩わしいのだ。

対話を求めていると言っても、自分から話を切り出すのには苦手意識がある。怖いと思う。それは偏に、経験不足によって相手の反応の予想が立てられず、不安になるからだ。そこで、安全に経験を積むために、カウンセラーが存在しているように思える。そうか、なるほど。

こうして怯えているから対話から遠ざかっているだけで、おそらく、対話は楽しいだろうなと思う。ひとりで多角的に見ようと思っても、限界はある。想像の斜め上からの意見を聞ける機会は、やはり対話にしかない。ただ、それを他者から押し付けられるのは嫌だ。ただそれだけだ。